先史時代 (1624年以前)
地質学の研究によれば今から300万年から1万年前の更新世氷河期の時代、台湾は中国大陸と地続きであり、大陸から人類が台湾に移住し、居住していたと考えられている。現在台湾で確認されているもっとも古い人類は台南県左鎮郷一体で発見された左鎮人であるが、その生活文化がどのようなものであったのかについては具体的な考古学の成果が上がっていない。
また考古学により旧石器時代晩期(5万年 - 1万年前)には人類の居住が開始されていたことが確認されている。現在確認されている台湾最初の文化は長浜文化(台東県長浜郷の八仙洞遺跡などが代表例)であり、大量の打製石器及び骨角器が発掘されている。長浜文化は中国南部の文化とある程度の類似性を有しているが、現在の考古学の成果からは台湾の旧石器時代の民族系統については確定するに至っていない。
台湾での新石器時代及び金属器時代の文化は旧石器時代の文化との関連性は高くない。この時期は発掘された遺跡により台北県八里郷の大?坑文化及び十三行文化、台北盆地の円山文化及び植物園文化、台東県の卑南文化等が存在しているが、出土品の中に中国大陸からの貨幣なども含まれており、台湾以外との外部交渉が行われていた傍証となっている。現在定説となっているのは新石器時代以降の先史文化は台湾南島語系民族によるものであり、現在の原住民が台湾に定住する以前に、別の族群が台湾に居住していた可能性を示している。卑南遺跡。鳥居龍蔵撮影
日本人学者移川子之蔵は台湾の先史時代より20以上の先住民族が居住していた可能性を指摘し、また一部は現在の原住民の祖先(十三行文化人のガダガラン族祖先説)であるとも考えられている。しかし考古学の発掘は未だ新石器文化と台湾原住民との間を具体的な継承関係を確定できていない。
台湾原住民はオーストロネシア語族に属し、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかし一度台湾から出て行った種族が、再び台湾に戻ってくるなど、その移動は複雑で未だ不明な点が多い。
台湾は、東海(東シナ海)上にある島として古くから中国人にその存在を認識されていた。『三国志・呉志』、『隋書・流求伝』及び『文献通考』などに台湾を記録したとも考えられる記録があり、『隋書・流求伝』では「流求国在海中、当建安郡東、水行五日而至(流求国は海中に在り、建安群の東に当たり、水行こと五日にして至る)」と記載され、中国の歴史学者は中国と台湾との間の交渉の論拠としている[1]、しかしこの記述が台湾を記録したものか不明であるとし[2]、流求とは琉球群島であるという反論もなされている[3]。現在台湾を記録したことが確実視される史料としては 『元史・瑠求伝』がある。台湾が何時の時代に中国の版図に編入されたかについては諸説があるが、澎湖諸島と台湾本島を区分して記述すれば、澎湖諸島は元代に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したというのが確実な記録であり、台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地としての位置づけが明代まで続き、清代になり正式に中国版図に組み入れられたと見なす傾向が台湾での主流である。
オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
詳細はオランダ統治時代 (台湾)を参照『熱蘭遮城及び長官官邸鳥瞰図』1635年頃オランダハイヤ国立公文書館所蔵
台湾が本格的に開発されるようになったのは16世紀の明朝時代になってからである。倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。また、この時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。その為に、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
なお、ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生したとされている。
また、その頃日本にも、台湾に対して領土的な興味を持つ勢力が幾つか存在した。豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。 実質的には存在せず朝貢の目的は果たせなかった)。また1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官 村山等安が、いずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣した。
台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。なお、同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放する事に成功している。オランダ語と新港語併記のマタイ福音書
オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。