台湾の文学
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台湾の伝統文学

広義での台湾の伝統文学とは古文で書かれた作品を意味し、鄭氏政権の時代より継続して発展してきた。鄭氏政権時代の沈光文の文集、鄭経の『東壁楼集』などが代表する作品であり、また東吟社の創立は台湾における詩社の先駆となった。清初、郁永河による『裨海紀遊』[2]、黄叔?の『台海使槎録』は葉石濤により台湾伝統散文作品の双璧と称されている。清代の本土文人である諸羅の王克捷[3]、澎湖の蔡廷蘭[4]、彰化の陳肇興[5]、淡水の黄敬[6]、曹敬[7]、新竹の鄭用錫、林占梅などが代表的な文人である。それ以外に宦遊人士劉家謀の『海音詩』、『観海集』[8]などは当時の社会情況を反映してた作品を残している。清末に唐景?が台南及び台北に着任すると地方文学が隆盛となり、詩歌を台湾に普及させた点が評価されている。

これらの伝統的な文学は日本統治時代になっても発展を続け、連雅堂が発行した月刊誌『台湾詩薈』[9]では伝統的な文学の記録に大きく貢献している。またこの時期には台湾全島で370を越える詩社が成立し、その中でも台湾中部の櫟社、南部の南社、北部の瀛社などが代表的なものである。そして頼和、周定山[10]、陳虚谷[11]王敏川、林荊南[12]等の新旧文学双方で活躍する文人も登場している。日本統治時代の文学雑誌としては『詩報』が最も歴史あるものとして観光され、[13]それ以外に『風月報』[14](『南方』)、『台湾文芸叢誌』[15]、『崇聖道徳報』[16]、『南瀛佛教会報』[17]などにより多くの伝統的な文学作品が発表されている。日本統治時代の台湾文壇を代表する林献堂の作品としては1927年に台湾文化協会が分裂した際に欧米を遊学した際の『環球遊記』[18]が代表作として知られている。林献堂は1927年から1954年にかけて『灌園日記』を発表、台湾文学史上最も重要な私文学として高い評価を受けている。このほか張麗俊[19]の『水竹居主人日記』は櫟社の研究内容を紹介するものであり、日本統治時代の地方文学、経済、社会などの文化を紹介した作品も登場している。

この他『台湾日日新報』、『台南新報』、『台湾新聞』、『台湾民報』、『昭和新報』、『三六九小報』、『南瀛新報』などの新聞が発行され、伝統的な台湾の文学を紹介する媒体となっていた。


日本統治時代の新文学台湾新文学の父:頼和

文学は時代を映す鏡であり、時代の変遷とともに文化もまた複雑な変化の過程を辿ることとなり、台湾の文学もその歴史の影響を受けたことは例外ではなかった[20]。当時青年期にあった台湾文学は中国大陸の影響を離脱し、日本統治時代に台湾の新文学が登場し独自の発展を遂げるようになったと言われていると同時に、中国古文を離脱した新文学運動は中国近代史と密接な関連を有す潮流であったことも否定できない。


白話文運動

1919年東京市における台湾留学生組織である啓発会を新民会に改編すると共に、機関紙として『台湾青年』を創刊し、これは政治運動、社会運動の嚆矢となった。その後は『南音』、『台湾文芸』、『台湾新文学』などの文芸誌が次々とはじめられることとなった。古詩から脱却した台湾の近代文学は白話文運動の先駆者とされ、中国で発生した五四運動との関連性が研究者から指摘されている。新旧の異なる文学概念及び台湾における特殊な文学、言語環境はその後の新旧文学論戦へと発展した。しかし台湾の白話文運動は勃興して間もなく台湾総督府により制限を受けることとなり運動は低迷していく[21]


文学論戦

1930年代、白話文運動により熱を帯びた台湾文学の発展は台湾総督府による制限により間もなくその潮流は消滅した。しかし1930年代初期になると台湾の文学、言語、族群意識による台湾郷土話文論戦が論じられるようになった。

1930年、黄石輝は東京において「郷土文学論争」を提唱した。それは日本という異なる環境の中で台湾の文学とは台湾の事物を描写したものであり、台湾の民衆を感動される文学を台湾語によって表現しようと提唱したものである。1931年、台北在住の郭秋生は黄石輝に賛同し、更に問題の深層化を行ない台湾語文論戦を提唱、台湾の作家は台湾語による作品発表を行なうべきであると提言を行ない、台湾新文学の父と称される頼和の全面的な支持を獲得するに至っている。その後台湾の文学は台湾語や中国語を使用し、台湾を主要な題材として描写すべきだとして、台湾新文学運動の文人間における大きな論点へと発展している。

しかしその後は戦時体制の強化と共に日本式教育が浸透したことでこれらの論争は充分な発展の機会を与えられることなく、最終的には総督府による皇民化政策に埋没する結果となった[22]


その後の影響

1934年から1936年にかけて張深切と頼明弘が中心となり、台湾人作家による台湾文芸聯盟が組織され、1936年11月には機関紙として『台湾文芸』が創刊された。その後は楊逵と葉陶により台湾新文学社が別組織として設立され、雑誌『台湾新文学』が創刊されている。これらは表面的には文芸活動を提唱していたが、実際には政治的な目的を有す文学結社としての正確が強かった。1937年盧溝橋事件以降は総督府は国民精神総動員本部を設置すると共に皇民化運動を推進、中国語の使用制限政策により『台湾新文学』が廃刊に追い込まれている。戦時体制下の台湾人作家は日本人作家を中心とする団体の下に終結することが余儀なくされ、1939年に成立した台湾詩人協明会や1940年に改編された台湾文芸家協会」[23]などの組織の中で活動していた。

文化面で言えば台湾文学は台湾人内部の心情と台湾文化の本質を探究しており、表面的には平淡な活動であってもその本質は政治運動、社会運動がもたらした衝撃と自己反省にあり、台湾文学界は台湾文化問題の思考に目覚め、台湾文化を基礎に台湾文学を確立しようとしたものであった。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki