『古事記』本文の記述以外には編纂の記録が直接は見当たらず、最古の写本も南北朝時代のもの(#写本を参照)であるため、それより以前の姿をそのままにとどめているかどうかに疑義を抱く改竄説も出されているが、考古学的反証も主張されている(#『古事記』偽書説も参照)。
『古事記』の研究は、近世以降とくに盛んにおこなわれてきた。江戸時代の本居宣長による全44巻の浩瀚な註釈書『古事記伝』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。宣長の打ち出した国学による「もののあはれを知る」合理研究は、漢式の構造的な論理では救済不能な日本固有の共感による心情の浄化プロセスの追及であった。しかし「からごころ」排撃は、のちに国粋主義的皇国史観、神話の絶対化に変容されたとの見方もある。
第二次世界大戦後は、倉野憲司や西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。とくに倉野憲司による岩波文庫版は、1963年の初版刊行以来、通算で約100万部に達するロングセラーとなっている。
20世紀後半より、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては、津田左右吉や石母田正があり、作品論の代表としては吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。殊に神野志の『古事記の達成』は、それまでの研究史を革新したといってよい。イザナミ神陵地の比較研究では、安本美典の「邪馬台国と出雲神話」などが有名である。
『古事記』には、近世以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明・大和岩雄・大島隼人らは、『古事記』の成立が公の史書に記されていないことなどの疑問点を提示し、偽書説を唱えている。
偽書説には大体二通りあり、序文のみが偽書であるとする説と、本文も偽書であるとする説に分かれる。概要を以下に記す。
序文偽書説では、『古事記』の序文(上表文)において『古事記』の成立事情が語られているが、それを証する外部の有力な証拠がないことなどをもって序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
本文偽書説では、『古事記』の神話には『日本書紀』より新しい神話の内容を含んでいるとして、より時代の下る平安時代初期ころの創作、あるいは岡田英弘のように伊勢国の国学者本居宣長によって改作されたものであるとする。
しかし偽書説は、上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣のなかでも、『万葉集』・『日本書紀』の中ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別[2]が、『古事記』には残存しているからである。これは偽書説を否定する重要な論拠である[3][4]。
なお、序文偽書説の論拠の一つに、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」という異なる漢字表記になっているというものがあった。ところが、1979年1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳[5]
とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。
内容
撰者である太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が、天子に奏上する形式に倣って記した序文である。
序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
ここでは天地開闢からはじまる『古事記』の内容の要点を挙げ、さらにそれぞれの御代の事跡は異なるがほぼ政治に誤りはなかった、と述べている。臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。…(臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形)…歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、文質同じくあらずと雖も、古を稽(かむが)へて風猷を既に頽れたるに縄(ただ)し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。(雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典?於欲絶)
序第2段 『古事記』撰録の発端
ここではまず、天武天皇の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して『帝記』・『旧辞』を暗誦させたが、時世の移り変わりにより文章に残せなかった経緯を記している。…ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき。…(於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭)
序第3段 『古事記』の成立
ここでは、元明天皇の世となって安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では、言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。…(於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採?然、上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難)…大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。(大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首)和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶