原爆の投下後の8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決定し通告した。このことにより特に欧米では原爆投下が日本に降伏を促したという論が既成事実として受けいられている。ただしこれまで日本は絨毯空爆によりより大きな被害を受けていたこと。さらにソ連の宣戦布告が重なることなどから原爆投下と日本降伏の関連はいまだに議論されている。
日本の降伏により、1945年11月に予定されていた九州南部への上陸作戦、並びに翌年3月に予定されていた関東地方への一大上陸作戦が中止となった。 この作戦が実行されていた場合、100万名以上の米軍が東京に上陸し、双方合わせて広島と長崎の原爆による死傷者をはるかに上回る戦死者を出しただろうと戦後に米軍当局はコメントしている。このコメントが後年、米国における原爆投下正当化の根拠となった。(本土作戦に関する詳細は、米軍:ダウンフォール作戦、日本軍:本土決戦・決号作戦を参照)
関連項目
核兵器 - 水素爆弾 - 中性子爆弾
相対性理論 - コバルト - カリホルニウム
爆縮レンズ
被爆者
原爆傷害調査委員会 (ABCC)
ピースサイン
Category:広島原爆
広島市への原子爆弾投下
グラウンド・ゼロ - 原爆ドーム - 相生橋
はだしのゲン
原爆の図丸木美術館
Category:長崎原爆
浦上天主堂 - 大浦天主堂
第二次世界大戦
日本の原子爆弾開発
Category:核実験
核実験
北朝鮮核問題 - 核武装論
原子爆弾酒
脚注^ ⇒『原子力のすべて』−地球と共存する知恵− 内閣府「原子力のすべて」編集委員会編 第7章第1節より
^ a b ⇒あとみん 原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト内 ⇒原子力百科事典より。(2008年8月現在、メンテナンス中)
^ 『原子力のすべて』−地球と共存する知恵− 内閣府「原子力のすべて」編集委員会編 第7章第4節より
^ ⇒NRDC Profile: Thomas B. Cochran
^ トルーマンの日記には、7月25日夜投下決意の記載がある。
^ 実際の爆心地の中心は戦後の調査で相生橋から300m離れた島病院の上空と推定されている。なお島病院の院長は、不在の為無事だったという。
^ 最近まで、そこに座っていた人間が石に焼き付けられたものだと思われていたが、近年の調査で、その石材からは人間の組織は発見されなかった。また、目撃情報として黒焦げの死体がそこにあった、というのもある
^ 爆心地から僅か700m付近で線路から脱線した状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車)は今もなお原形のままで走り続けるなど奇跡的に残った物もある。
^ 投下の第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、その他人口密集地福岡市、軍港のある佐世保市であった。しかし福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済み、また九州北部に濃い雲が広がり、目視で投下できる長崎に変更された。この「濃い雲」は、アメリカ軍が原爆投下前日に小倉を爆撃して、八幡製鉄所周辺から発生した「煙」とも言われる。悪天候とこの煙、及び残燃料の量から、第2候補の佐世保が原爆を投下できる限界であったが、その佐世保も十分に狙いをつけて投下できる時間的・燃料的余裕はなく、なおかつ悪天候でもあり、雲の隙間から見えた長崎市の市街地へ向けて投下せざるを得なかった、ともいわれる。
^ 現松山町5番地
外部リンク爆心地の島病院(現在は島外科)前にあるモニュメント
⇒内閣府『原子力のすべて』第7章 核兵器は拡散させない
⇒広島平和記念資料館
⇒国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
⇒広島赤十字・原爆病院
⇒長崎原爆資料館
⇒国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
⇒A-Bomb WWW Museum(日本語、英語)
⇒The National Security Archive(英語)
⇒原子爆弾の歴史-1
⇒原爆投下と終戦
⇒OKWave - どうして広島や長崎には原子力爆弾の影響が残っていないのですか?
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更新日時:2008年8月10日(日)15:22
取得日時:2008/08/18 02:04