インプロージョン (implosion) とはexplosion「爆発」という語のex-(外へ)という接頭辞をin-(内へ)に置き換えた造語であり、和訳は「爆縮」。インプロージョン方式とはその名の通り、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬を同時に爆発させて位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し、高密度にすることで超臨界を達成させる方法である。長崎市に投下されたファットマンで採用された。 プルトニウムは自発核分裂の確率が高く、プルトニウム原爆は過早爆発防止の為にこの方式でのみ実用可能となるのに対し、ウラン原爆はインプロージョン、ガンバレルどちらの方式でも可能である。詳細は爆縮レンズを参照。
しかしこの方式は衝撃波の調整や爆縮レンズの設計が非常に難しく、数学者ジョン・フォン・ノイマンの10ヶ月にも及ぶ衝撃計算がなければ実現し得なかったと言われている。ガンバレル方式の原爆は実地テストなしで広島に投下されたが、インプロージョン方式の爆弾はこのような高精度の動作が求められたため、ニューメキシコ州アラモゴードのトリニティ実験で設計通りに作動することを確認するテストが行なわれた。この方式は前述のガンバレル方式より効率が良い。核分裂反応が始まって核物質を四散させようとする圧力が働いても、爆縮による内向きの圧縮力が押さえこみ、核分裂が継続するためである。そのため、以後製造された原子爆弾は、プルトニウム型もウラン型もインプロージョン方式を用いている。
第二次世界大戦後は、東西冷戦の激化とともに、アメリカ・ソヴィエト連邦を中心に重要な兵器として原子爆弾の改良が進められた。威力を100キロトン以上に強大化した大型原爆や、熱核反応をプラスして300キロトン程度に増強した強化原爆が開発された。
この動きとは逆に日本投下時には4〜5トンもあった爆弾重量を軽減させる開発も行われ、280ミリ砲から原爆の砲弾(Mk-9など)を発射する原子砲や、歩兵一人で使用可能な核無反動砲(デイビー・クロケット、威力は0.02キロトン)も製作された(いずれも現在は退役)。
プルトニウム原爆において、プルトニウム240含有量が7%を超えた粗悪なプルトニウムであった、爆縮が不完全だった、軽量化のため爆縮火薬を削減しすぎた余裕のない設計だった、などの場合では、インプロージョン方式であってもプルトニウム240の自発核分裂の発生する外向きの爆風が、TNT爆縮火薬の内向きの圧力に打ち勝ってプルトニウム239の塊が充分に核分裂を完了する前に吹き飛ばしてしまう。この現象が過早爆発であり、プルトニウム239の一部しか核分裂しないため、爆発力が計画値を大幅に下回ってしまう。2006年の北朝鮮の核実験は過早爆発気味だったのではないかと見られている。
ただし、核実験の場合は計測器を装着して実験するので、一回目の実験に失敗した場合でも、プルトニウムの240の含有量を減らすとか、爆縮火薬の威力や同期を改善するなどして生産する核兵器の信頼性を高める事は可能であり、むしろ実験データを基に「どれぐらいの品位向上/爆縮威力改善が必要か」といったノウハウが取得できてしまう。したがって核実験が過早爆発気味であったからと言ってその国が必ずしも「技術レベルが低くて正常に機能する核弾頭を作ることができない」という事を意味する訳ではない。
広島市広島被曝図被爆直後の広島長崎市で撮影された人間の影長崎の爆心地公園。レンガ造りの構造物(手前)は旧浦上教会の被爆遺構を建て替え時に移設したもの。黒色の構造物(奥)が原爆落下中心碑
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマンの原子爆弾投下への決意[5]により発した大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空580メートルで炸裂した[6]。 爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼んでいた。
爆心地付近は鉄やガラスも熔けるほどの高熱に晒され、石材に焼き付けられた人影が今も残る[7]。また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。
爆風と衝撃波による被害も甚大で、爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが倒壊した[8]。 爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生した。また投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人も含めて急性障害が多発した(二次被害)。当時の広島市内には約34万2千人がいたが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに14万人が死亡したと推定される。その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。詳細は広島市への原子爆弾投下を参照。
広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29(ボックスカー)が長崎市に原子爆弾ファットマンを投下した[9]。
投下地点は長崎市北部の松山町171番地[10]テニスコートの上空であった。当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。詳細は長崎市への原子爆弾投下を参照。