1982年(昭和57年)には3連覇を達成した。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが、やや頼りない部分も見受けられ、特に1984年(昭和59年)は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。翌5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖に一方的に寄り切られて11勝止まり。7月場所は左肩の脱臼で全休。9月場所は入幕2場所目の新鋭小錦の突き押しにあっけなく土俵を割り、場所後横綱としての責任を問われる羽目になってしまった。11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからであった。両国国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)1月場所は全勝優勝で最高のスタートを切り、夏場所から廻しの色が「青」から「黒」に変わり、この年史上3人目となる年間80勝を達成した。さらに、1986年(昭和61年)5月場所?翌年1月場所まで5連覇を達成した。1987年(昭和62年)前半は僅かに崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声もあり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝。他を寄せ付けない圧倒的な強さで、昭和50年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」の中でも、昭和最後の4年間は驚異的な成績を残した。ちなみに、53連勝でストップした大乃国との一番が奇しくも昭和最後の一番となる。
その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。また、人気漫画『キン肉マン』のキャラクター「ウルフマン」(アニメ版ではリキシマン)のモデルにもなっている。引退した年の1991年(平成3年)にも、アニメ『ゲンジ通信あげだま』に千代の富士並みの力を得られる「ウルフカード」というアイテムが登場している(番組前半の登場であるため、おそらくデザインされたのは引退前と思われる)。
幕内→大関→横綱と一気に昇進してしばらくは絶大な人気を誇ったが、あまりの強さにファンがやや飽きたこと、若手のライバル北天佑の実弟(千代の富士と同じ九重部屋に所属、目に余る素行不良でいわゆる「かわいがり」を受けた)を稽古でリンチまがいにシゴき重傷を負わせたという疑惑が起きたこと、週刊誌などの大相撲八百長疑惑報道で名指しされたことなどで、やや人気が低迷した時期もある(高鐵山孝之進、板井圭介を参照)。
角界屈指のゴルフ好きだが、元々休みの日は麻雀や、ファミコンに夢中の彼に対して、北の富士勝昭(当時:九重)は「健康的な休みを取らないとダメだ!」と、無理やり彼をゴルフに連れて行った。しかし、初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かった彼は「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」と、北の富士のメンツは丸つぶれ。この日を境に、千代の富士はゴルフに狂い出した程。
横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ系)には1985?1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者であり、千代の富士、及び師匠の九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演であった(そのため、彼女が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない)と言われている。特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイスが吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開し物議を醸した回であり、歌の最中、千代の富士は明らかに不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村真理が、話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話がけている様子が確認されている。
1989年(平成元年)3月場所14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を脱臼。翌日の千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手にテーピングを巻いて登場。片手で賜杯を手にした。6月に、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くす不幸に見舞われる。千代の富士の家族をはじめ、千代の富士自身も精神的なショックが大きく、もう相撲が取れないのではないかと思われた程だった。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、成績は12勝ながらも千秋楽の優勝決定戦で弟弟子の北勝海を下して、神がかり的な優勝を果たした。涙ながらに「供養になった」という言葉は、相撲ファンに大きな感動を与えた。翌9月場所に通算勝ち星の新記録を達成し、9月28日に大相撲の世界で初めての国民栄誉賞受賞が決定した。この日は先代九重の千代の山の13回忌が行なわれた日でもあり、この時千代の富士は「苦労をかけた師匠にいい報告ができます」と言ったそうである。これにより協会は一代年寄千代の富士貢を満場一致で承認するが、本人は九重(北の富士)とも相談のうえでこれを断わっている(このため彼を一代年寄に含めるかどうかは議論が分かれているが大鵬は還暦土俵入りの際に千代の富士も含まれるとの見解を示した)。
1990年(平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。翌3月場所の7日目には花ノ国戦の勝利で前人未踏の通算1000勝を達成した。しかし5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、千代の富士は2場所連続準優勝に終わり、旭富士の横綱昇進の引き立て役になってしまった。更に夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して4横綱がいる中14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。翌1991年(平成3年)1月場所初日に幕内通算805勝目を上げ、史上単独1位としたが翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして1991年5月場所初日に当時18歳の新鋭貴花田、三日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。引退相撲、断髪式は1992年1月場所後に行われた。
弟弟子の北勝海との稽古は壮絶な物であったと言う。が、その甲斐もあって、北勝海は1987年(昭和62年)7月場所に横綱に昇進している。さらに、1989年(平成元年)7月場所では千代の富士は、その北勝海と史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦し、優勝している。北勝海本人も「大将(千代の富士)がいたおかげで、自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力ならびに影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は関取は千代の富士だけだったが、その後は北勝海を筆頭に、孝乃富士や巴富士らが関取に昇進している。当の千代の富士本人も、「北勝海との猛稽古がなかったら自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
また、北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で、千代の富士を「大将」と呼ぶ様にさせた、という話も残っているが、横綱となった身の者が、先輩横綱という意味のみならず、ワンランク上の横綱、と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。
横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りで、かなり上手い部類に入る。重い横綱を付けた状態で、上げた足が頭より高い位置に達する( ⇒参考画像)のは、千代の富士のほかにはほとんど例がない。また取り組み前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて、廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど、礼儀作法を重んじている。