幕内での場所別成績
幕内通算勝利・敗戦・勝率はその場所時点での数字
場所地位勝数敗数休場その他幕内勝幕内敗幕内休勝率
昭和50年 9月東前頭12枚目5100新入幕5100.333
昭和53年 1月東前頭12枚目870再入幕13170.433
昭和53年 3月東前頭8枚目870-21240.467
昭和53年 5月東前頭5枚目960敢闘賞(初)30300.500
昭和53年 7月西小結5100新小結35400.467
昭和53年 9月東前頭4枚目4110-39510.433
昭和53年 11月西前頭10枚目960-48570.457
昭和54年 1月東前頭4枚目5100-53670.442
昭和54年 3月西前頭8枚目267途中休場55737.430
昭和54年 7月西前頭14枚目870再々入幕63807.441
昭和54年 9月東前頭10枚目870-71877.446
昭和54年 11月東前頭7枚目780-78957.448
昭和55年 1月東前頭8枚目870-861027.455
昭和55年 3月東前頭3枚目870技能賞(初)、金星2941097.460
昭和55年 5月西小結690再小結1001187.456
昭和55年 7月西前頭2枚目960技能賞(2)、金星11091247.466
昭和55年 9月東小結1050再々小結、技能賞(3)1191297.476
昭和55年 11月東関脇1140新関脇、技能賞(4)1301337.491
昭和56年 1月東関脇1410優勝(初)(北の湖との決定戦を制す)、殊勲賞(初)、技能賞(5)1441347.514
昭和56年 3月東大関1140新大関1551387.526
昭和56年 5月東大関1320-1681407.542
昭和56年 7月東大関1410優勝(2)1821417.560
昭和56年 9月西横綱大関1212新横綱、途中休場18314319.558
昭和56年 11月東張出横綱1230優勝(3)(4代朝汐との決定戦を制す)19514619.569
昭和57年 1月東横綱1230-20714919.579
昭和57年 3月西横綱1320優勝(4)22015119.590
昭和57年 5月東横綱1320優勝(5)(4代朝汐との決定戦を制す)23315319.601
昭和57年 7月東横綱1230優勝(6)24615619.609
昭和57年 9月東横綱1050-25616119.611
昭和57年 11月東横綱1410優勝(7)27016219.622
昭和58年 1月東横綱1230-28216519.628
昭和58年 3月東横綱1500全勝優勝(8)29716519.640
昭和58年 5月東横綱0015全休29716534.640
昭和58年 7月東横綱1320-31016734.647
昭和58年 9月東横綱1410-32416834.656
昭和58年 11月西横綱1410優勝(9)33816934.664
昭和59年 1月東横綱1230-35017234.668
昭和59年 3月西横綱447途中休場35417641.665
昭和59年 5月東張出横綱1140-36418041.665
昭和59年 7月東張出横綱0015全休36418056.665
昭和59年 9月東張出横綱1050-37418556.666
昭和59年 11月西横綱1410優勝(10)38818656.673
昭和60年 1月東横綱1500全勝優勝(11)40318656.681
昭和60年 3月東横綱1140-41419056.682
昭和60年 5月東横綱1410優勝(12)42819156.688
昭和60年 7月東横綱1140-43919556.689
昭和60年 9月東横綱1500全勝優勝(13)45419556.697
昭和60年 11月東横綱1410優勝(14)46819656.702
昭和61年 1月東横綱1320優勝(15)48119856.706
昭和61年 3月東横綱1212途中休場48220068.704
昭和61年 5月東横綱1320優勝(16)49520268.707
昭和61年 7月東横綱1410優勝(17) (北尾(双羽黒)との決定戦を制す)50920368.712
昭和61年 9月東横綱1410優勝(18)52320468.717
昭和61年 11月東横綱1320優勝(19)53620668.720
昭和62年 1月東横綱1230優勝(20)(双羽黒との決定戦を制す)54820968.721
昭和62年 3月東横綱1140-55921368.722
昭和62年 5月東横綱1050-56921868.721
昭和62年 7月東横綱1410優勝(21)58321968.724
昭和62年 9月東横綱924途中休場59222172.726
昭和62年 11月東張出横綱1500全勝優勝(22)60722172.731
昭和63年 1月東横綱1230-61922472.732
昭和63年 3月東横綱0015全休61922487.732
昭和63年 5月東張出横綱1410優勝(23)63322587.735
昭和63年 7月東横綱1500全勝優勝(24)64822587.740
昭和63年 9月東横綱1500全勝優勝(25)66322587.744
昭和63年 11月東横綱1410優勝(26)、53連勝達成67722687.748
平成元年 1月東横綱1140-68823087.747
平成元年 3月西横綱1410優勝(27)、千秋楽不戦敗70223187.750
平成元年 5月東横綱0015全休702231102.750
平成元年 7月東張出横綱1230優勝(28)(弟弟子、北勝海との決定戦を制す)714234102.751
平成元年 9月西横綱1500全勝優勝(29)729234102.755
平成元年 11月東横綱1320-742236102.757
平成2年 1月東横綱1410優勝(30)756237102.759
平成2年 3月東横綱1050通算1000勝達成766242102.758
平成2年 5月東横綱1320-779244102.760
平成2年 7月西横綱1230-791247102.760
平成2年 9月東横綱0015全休791247117.760
平成2年 11月東張出横綱1320優勝(31)804249117.761
平成3年 1月東横綱2112途中休場806250129.761
平成3年 3月西張出横綱0015全休806250144.761
平成3年 5月西張出横綱13-引退807253144.759
通算807253144-----
引退にまつわるエピソード
横綱昇進が決まった日の夜、師匠の九重(元横綱・北の富士)は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと、潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士は、この言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山へ語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。
1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった弱冠18歳の貴花田と、大横綱千代の富士との初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。この取り組みは後に、漫画に描かれてもいる。
貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退を決意していたが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日又がんばれよ」と言った。このために、千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまったので、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時には、千代の富士も涙したが師匠の九重も思わず男泣きしたという。
千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車正面衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし、夜になって千代の富士が引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断し、会見の生中継を行った。この際に最初は笑みを交えて「皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…」と語ったが、その後思わず言葉に詰まり目を赤くして、「体力の限界!気力も無くなり、引退することになりました」と振り絞るように言い放った。
翌7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立ち若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに師匠の九重は「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言ったという。
断髪式が行われた1992年2月1日は、TBSで放送され、大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。
ロンドンにある蝋人形館、マダムタッソーでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。ウルフと呼ばれていたことなどが記載されている。
千代の富士貢著作
『不撓不屈 : 一〇四五勝への道のり』(1992年2月発行)ISBN 4-89198-090-7