北宋
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鉱業

貨幣の項で述べたように大量の銅銭を発行するために大量の銅が必要とされた。当時の銅山には官営と私営とがあり、私営のものは産出した銅の一部を税として納め、さらに余剰分も全て政府が買い取ることとされた。しかしこの時代に既に中国の銅山の限界が見えており、新たな鉱山の調査が進められたがいずれも空振りに終わり、貨幣の増加に合わせるだけの増産は難しい状態であった。

当時銅の精錬において、主流であったのは乾式精錬(溶鉱炉による精錬)であったが、銅鉱石の質の低下によりこれだけでは十分な量の確保が難しくなった。そこで湿式精錬(化学反応による精錬)が実用化されることとなった。胆礬(硫酸銅5水和物)に鉄くずを反応させることで沈殿銅を得る。この方法を侵銅といい、得られる銅を胆銅という(対して乾式による銅は礦銅)。中国において胆礬に鉄を反応させて銅を得る方法自体はかなり古くから知られていたが、北宋・元祐年間に至って張潜という者によって初めて工業化された。

湿式は乾式に比べて質の悪い銅鉱石でも銅を得ることが可能であるという利点があり、乏しくなりつつあった銅産をある程度支えた。しかし銅鉱の枯渇という大問題の前には根本的な解決策にならず、北宋末から南宋にかけて銅銭の鋳造量は激減し、更に代に雲南の銅山の供給を得るまでは、中国において銅銭は衰退せざるを得なかったのである。


流通


通貨

北宋の通貨単位は銅銭一枚の「銭」と銅銭一千枚の「貫」(緡)である。


貨幣

唐末期から五代宋初にかけては貨幣経済の進展期でもあった。

しかし進展があまりに大きかった故に当時の通貨であった銅銭の深刻な不足を呈した。これに対して後周では仏像を鋳潰して銅銭に変え、また南方の十国では後蜀で鉄銭、?などで鉛銭の鋳造が行われた。

このように地域ごとで貨幣が異なることは経済流通の面から言えば大きな問題であり、宋に入ってからはこれを統一するべく政府の政策が行われ、蜀(四川)地方を除いた地域では概ね銅銭(宋銭)による統一がなされた。蜀に於いては銅銭の統一が上手くいかず、この地域は特別に鉄銭を流通させ、鉄銭の流出・銅銭の流入を厳に禁じた。

しかし全中国的な銅の産出量はあまり増えておらず、銅不足の状態は続いた。また諸外国との交易に於いて宋銭は最も重要な輸出品として取り扱われ、これに伴い国内の銅銭不足は更に深刻さを増した。この銅銭不足の状態を銭荒と呼ぶ。政府はこれに対するために民間に於ける銅器の所持の禁止、銅銭の国外持ち出し禁止などの銅禁政策を打ち出した。

銅銭発行高は北宋を通じて増え続け、太宗朝の至道年間(995年-997年)に80万銭であったものが、真宗の景徳年間(1004年-1007年)には183万になり、神宗の元豊元年(1078年)には506万と最高点に達した。これ以降は交子などの紙幣の発行が多くなったこともあり、銅銭の発行高は減少に転じた。

宋代の銅銭流通に於いて特筆すべきことは短陌(省陌)と呼ばれる慣習である。短陌とは100枚に満たない枚数をもって100枚と看做す慣習である。何枚をもって100枚と看做すかはその用途によって様々である。銅銭不足に対応するために行われていたと推測されているが確実な所は不明である。


紙幣・為替・証券

銅銭は重たくかさばり、また絹や金銀などは高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭飛銭)という為替制度があった。唐の長安には便銭務という役所があり、ここに銭を預けて預り証を受け取り、地方の役所にてこれを換金する。この制度は宋代まで続けられている。これと同じような制度が民間にもあり、堰坊という所で銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。

蜀に於いては前述の通り鉄銭が使われていたが、鉄銭は銅銭と比べても重く、不評であった。そこで成都の商人たちが集まって鉄銭を預かって交子を発行していた。この交子は重い鉄銭よりも遥かに使い勝手が良く、蜀に於いては広く流通していた。この交子の利益に目をつけた政府は商人たちの経営が苦しくなると商人たちに代わって交子を発行するようになった。この交子は世界最初の紙幣とされる。交子は初めは蜀でのみ流通させていたが、やがて全国へと広がり、兌換の対象も鉄銭から銅銭へと代わった。交子には界と呼ばれる期限が定められており、その間に使用ないし兌換をしなければ紙切れと化すものであった。深刻な銅銭不足でもあり交子の発行額は年々増え、徽宗代には乱発気味となって価値を落とした。

また専売の引換券である交引もまた一種の有価証券として扱われ、取引されていた。詳しくは上の#専売を参照のこと。


交通

陸路では首都・開封から放射線状に伸びる八本の道路、山東方面2・河北方面1・山西方面1・陝西方面1・江南方面2・湖南方面1、が主要幹線とされた。しかし経済的にはそれよりも水路が重要な位置を占めた。閘門の構造

北宋代、華北は江南からの供給を持って成り立つ消費経済となっており、江南からの食料を運搬を支えたのが大運河を初めとする水路であった。この需要にこたえるために造船が発達し、大きなものでは積載量が1万石(500トン)を超えるものも作られた。また水位の違う運河を行き来するために互いの水位を調節する閘門が設けられていた。これら運河を使うことにより全土の4分の3にいくことが出来た。首都・開封はこの運河を使用することを前提にした都市であり、内部を運河が貫通している。

またそれまで軽視されていた海運技術が大幅に向上し、頑丈なジャンク船が開発され、日本朝鮮から東南アジアインドまでを舞台とした貿易網が発展していく。

この時期になると江南の経済力は圧倒的になり、華北は消費社会として江南からの食料によって支えられる事になる。


小売・商業組織


とは商人の組合のことである。唐代までは前述したように市制があり、商売が行えるのは都市内の一定区画に限定されていた。その市の中においても区画があり、同業種の商人は同じ区画内で商売を行うことが定められていた。その中で同業種の商人たちは相互扶助を行う組織を作るようになった。これが行である。唐代に於いては行に登録されていない商人は商売をすることが出来なかった。行に所属する商人を行鋪、していない商人を行外鋪と呼ぶ。

宋代の行については、「行は同業種商人の自然発生的な相互扶助組織であり、互いに結び合うことで市場を独占し、莫大な利益を挙げた。」とする考えと「行は、役や和買の割り当てをスムースに行うために宋政府によって作られた組織であり、市場は行によって独占されておらず、宋代の市場は自由なものであった。」とする二つの考えがあり、結論は出ていない。[10]


社会


社会構成

宋代の社会の構成要因としては

士大夫・官僚としての特権を背景にした大土地所有者。官戸形勢戸。

非士大夫の大地主層。兼併。

中堅地主・自作農。

小規模自作農(半自作・半小作)。

佃戸(完全小作農)。

が主に挙げられ、この他に坊郭戸(都市住民)・商人・職人、僧侶・道士などの役職などがある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki