北宋
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税制

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税制は宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。


経済

唐代より行われてきた農業技術の進歩は生産力の向上を齎した。しかしこの向上は地方によっての格差が激しく、特に南北の格差は著しいものがあった。その中で各地方において市場が形成されるが、その間での需給・相場・度量衡の差を利用しての営利が盛んに行われるようになった。

この隔地間商品流通の発達によって、全国的な市場が成立し商品経済が確立した。その中で交通網の整備・金融の発達・仲買・(商人ギルド)の発達が、それぞれ見られるようになる。

社会の節も合わせて参照のこと。


生産

伝統的な中国の農本思想においては、自給自足を旨として自らが必要とする分と政府への納税分を生産し、余剰をもって商業が行われるのが一般的であった。これが宋代には農民たちは自らが必要としないものを生産してこれを売却することで利益を得ることが定着し、各地方で特産物が作られるようになった。


農業

江南が開発され始めた後漢末から現在に至るまで華北はコムギ食、江南はイネ食が基本である。唐から宋にかけて江南の米生産は大きく向上した。

江南での増産を齎したのは、集約農業、新品種の導入、治水感慨・農業技術の発達などである。

宋では奴婢は少なくとも法制上存在しなくなり、これに代わって良民中の下層階級である佃戸が地主たちの労働力として使われるようになり、これを未墾地に集中的に運用することが可能になった。

真宗の大中祥符五年(1012年)に早稲である占城稲が導入される。水害・干害・塩害に強い占城稲は広く普及し、南宋代には水田の8・9割はこの占城稲で閉められるようになったという[7]。これと晩稲を組み合わせる二期作、麦と組み合わせる二毛作が行われるようになった。概ね占城米は廉価なために流通に乗せられて庶民の食するところとなり、晩稲の粳米は高級品として扱われ富裕層の食するところとなった。納税も粳米を収めることに決められていた。

江南は低湿地帯が多いためそのままでは栽培が困難である。そこで堤防を築いて灌漑地を作り、そこに湖や溜池の真水を引き込むことで脱塩し、稲作を可能にする。これを?田・囲田・湖田などと呼び、総称して水利田という。

これらの発達により、華北と江南で大きな生産力の格差が生じた。この中で江南の米は華北にも運ばれ、華北においても官僚・都市住民・軍隊の間では米食が一般的になり、消費社会へと転じた華北を江南の米が支える形となった。この状況を示す南宋代の言葉に「蘇湖熟すれば天下足る[8]。」「蘇常熟すれば天下足る。[9]」という言葉がある。蘇州湖州常州の作物が実れば天下の食を満たせるという意味である。

また麦米が出来にくい土地ではその地の特産物を作ることで農業の分業化が進んだ。主なものとしては油脂類・蝋燭・野菜類・染料・果実・砂糖・桑など。


専売

宋代の専売の品目は塩・茶・酒・ミョウバンなどで、その中でも高い収入を上げたのが塩と茶である。塩は生物の生存に不可欠な物質であるために需要が止まることはない。また茶の風習は古く漢代よりあったが、中唐ごろより大きく広まり、宋代においてはどんな貧乏人でも毎日の茶は欠かせないといわれるほどになっていた。また契丹

塩の生産地として最大の物は旧南唐の領域であった両淮地方でここが生産の約半分を占める。それに次ぐのが解州で二割、以下両浙四川・河東と続く。茶では江南地方が最も多く四割ほどをここが占め、これに次ぐのが淮南の三割強、以下荊南・両浙と続く。生産を行う者は解州では周辺の州に毎年交代で戸ごとに二人の壮丁を出させて行わせる。それぞれ畦戸・畦夫と呼ばれ、畦夫には毎日米2升・畦戸は年銭40貫と他の役免除が与えられる。他の地域では特定の戸が塩の生産に専門的に従事する。両淮や両浙ではこれを亭戸(竃戸)といい、四川では井戸、茶においては園戸という。亭戸は生産の初期費用として塩本銭(茶本銭)を貸し付けられ、出来た塩を納入することでそれを返却することになっていた。しかし塩本銭を私する官吏たちによりその原則は早々に崩れ、初期費用は身銭を切り、納入した後で初めて塩本銭を支給されることが多く、その額も過小な額しか支給されないことが多かった。そのため逃亡する亭戸も多くなり、私塩が増えることになった。

生産された塩・茶を流通・販売するにおいては全てを官営で行う場合と、ある程度民間商人の手にゆだねる方式があった。官営の場合は官吏による着服などがあり、その度に値段は上がり、質は下がるという状態であった。私営の場合は密売の横行を招くという欠点があったが、質・価格ともに官営を圧倒するために宋代を通じて概ね私営の時が多かった。

北方の戦線を維持するために食糧や馬の食べる秣などが大量に必要となる。最初はこの輸送の労力として民衆たちを徴用し行わせていたが、この負担が非常に重く民衆を苦しめたので専売制を利用した方策が採られた。これを三税法という。専売品を商いたい商人は北方へと糧秣を運び込み、その量に応じて交引(塩引・茶引)という引換券を得る。これを産地に持って行き、現物と交換してこれを商う。

当初はこの方策は上手くいっていたが、次第に交引が濫発気味となり、塩は市場に出回る量が多くなりすぎて塩価が下がり、逆に茶は茶引に対して茶の生産が追いつかず、塩引・茶引ともに暴落を招いた。そのため交引を得た商人は遠くの産地まで行くだけの資金がなくなり、近辺で交引を売り払い現金に代えた。資本を持つ大商人たちはこの交引を安価で大量に買占め、これを高値で売り払うことで巨利を得た。

この状態に対して塩では范祥・茶では林特・李諮による改革が行われる。具体的な内容としては、両方とも一定の安定を見た。特に范祥による塩法はその後も長く引き継がれ、末に至るまで受け継がれることになった。


鉱業

宋代では大量の銅銭を発行するために大量の銅が必要とされた。当時の銅山には官営と私営とがあり、私営のものは産出した銅の一部を税として納め、さらに余剰分も全て政府が買い取ることとされた。しかしこの時代に既に中国の銅山の限界が見えており、新たな鉱山の調査が進められたがいずれも空振りに終わり、貨幣の増加に合わせるだけの増産は難しい状態であった。

当時銅の精錬において、主流であったのは乾式精錬(溶鉱炉による精錬)であったが、銅鉱石の質の低下によりこれだけでは十分な量の確保が難しくなった。そこで湿式精錬(化学反応による精錬)が実用化されることとなった。胆礬(硫酸銅5水和物)に鉄くずを反応させることで沈殿銅を得る。この方法を侵銅といい、得られる銅を胆銅という(対して乾式による銅は礦銅)。中国において胆礬に鉄を反応させて銅を得る方法自体はかなり古くから知られていたが、北宋・元祐年間に至って張潜という者によって初めて工業化された。

湿式は乾式に比べて質の悪い銅鉱石でも銅を得ることが可能であるという利点があり、乏しくなりつつあった銅産をある程度支えた。しかし銅鉱の枯渇という大問題の前には根本的な解決策にならず、北宋末から南宋にかけて銅銭の鋳造量は激減し、更に代に雲南の銅山の供給を得るまでは、中国において銅銭は衰退せざるを得なかったのである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki