北宋
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文学

ウィキソースにそれぞれの原文がいくつかある。 ⇒楊億・ ⇒林逋・ ⇒寇準・ ⇒欧陽脩・ ⇒梅堯臣・ ⇒蘇舜欽・ ⇒王安石・ ⇒蘇軾・ ⇒黄庭堅・ ⇒張先・ ⇒柳永・ ⇒周邦彦・ ⇒李清照


五代の詩は繊細な詩風を特徴とするが、が隆盛した一方で、詩は概ね低調であった。

宋が立ち、真宗朝で一応の平和が得られると詩作も非常に活発になり、高級官僚の間では西崑体と呼ばれる詩風が流行した。西崑とは西方の崑崙の意味であり、晩唐の李商隠に倣い、詩の中で崑崙のような幻想の世界に遊ぶ華麗な詩風である。故事や先人の詩を多く引いた装飾を凝らした表現が特徴である。西崑体の代表としては楊億・銭惟演・劉?といった名前が挙がる。西崑体は後に欧陽修によって李商隠のような危機感に欠けると批判され、代に再評価されるまでは長らく省みられなかった。

宋初には他に西崑体からは背を向けて独自の詩風を持つ人たちもいる。これらをまとめて晩唐派と呼んでいるが、その詩風が同じというわけではない。魏野・林逋寇準といった名前が挙がる。

仁宗朝に入り、欧陽修は韓愈に心を寄せて古文復興運動に取り組み、詩に於いても韓愈を手本、梅尭臣蘇舜欽を同士として新しい詩の流れを生み出した。

欧陽脩は感情を抑制した端正な情景描写が特徴である。梅尭臣はミミズといったそれまで詠みこまれることがまずなかった事物を使った詩が有名。蘇舜欽は霹靂や蛟龍といった物を使った豪放な詩を得意とする。

いずれも西崑体の華美な表現方法を退け、目の前にある物事を正面から捉え、それを平易な言葉で表現した叙事詩であることに特徴があり、欧陽脩らによって宋詩のスタイルは完成に至ったといえる。この流れを受けたのが欧陽脩らの一世代下で神宗朝で活躍した王安石であり、そして宋代最高の詩人である蘇軾である。

王安石には政治に関する詩が多く、表現に於いては故事・古詩を盛り込みつつも西崑体のような表現過剰とは縁遠い端正な詩風である。

蘇軾は若き日より文名が極めて高く、蘇軾に無許可で詩集が出版されたことがあったという。蘇軾は自由闊達・縦横無尽な表現を駆使する。特に比喩表現はその最たるもので読者からすると時に飛躍に思えるほどである。自由闊達であるがために全体を貫く蘇軾の詩風といえるものは見出せない。

当代一の文人である蘇軾の周りには多くの才能ある文人が集まり、黄庭堅・張耒・晁補之・秦観の四人は蘇門四学士と称された。その中でも黄庭堅が文名・後世に与えた影響共に最も大きい。黄庭堅の詩は故事や古詩から「換骨奪胎」し、思索と推敲を重ねて自分の詩を作り上げる詩論を提唱した。このような方法から作られた黄庭堅の詩は非常に凝った物となっているが、一方分かりにくい面もある。この黄庭堅の詩風は多くの追従者を生み、後に江西詩派と呼ばれる流れを作り出した。

これ以後の詩人は南宋期に跨って活躍した人がほとんどなので南宋の項目で述べる。「漢武」楊億 蓬?銀闕浪漫漫、弱水迴風欲到難
光照竹宮勞夜拜、露溥金掌費朝餐
力通青海求龍種、死諱文成食馬肝
待詔先生齒編貝、忍令索米向長安「書眉鳥(ホオジロ)」欧陽脩 百囀千聲随意移、山花紅紫樹高低
始知鎖向金籠聽、不及林間自在啼「鐘山即事」王安石 澗水無聲繞竹流
竹西花草弄春柔
茅檐相對坐終日
一鳥不鳴山更幽「春夜」蘇軾 春宵一刻値千金
花有C香月有陰
歌管樓臺聲細細
鞦韆院落夜沈沈


散文

宋における文学は唐中期の古文運動を引き継いでいる。古文運動とは六朝時代の四六駢儷体と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の内容を重視した文章への復帰を目指す運動である。

この流れは『新唐書』『新五代史』の編者として知られる欧陽脩により宋文学の主流となり、唐宋八大家と呼ばれる名文家が活躍した。八大家以外では黄庭堅・范仲淹・司馬光らの名前が挙がる。


漢文・唐詩・宋詞・元曲と後世に言われるように宋は五代を引き継いで、が大きく隆盛した。

詞は唐代の燕楽(宴楽)を源流とする。宴楽という語の示すように宴席で演奏される曲に付けた歌謡が詞である。#詩の項目で述べたように宋代になると詩は士大夫の物とされたために抑制的で叙事的なものになり、叙情的な詩は少なくなった。これに対して詞は叙情的な物が多く、また詩に於いては扱うことがタブーとされた恋愛に関する歌など俗なテーマも多く取り入れており、また七言や五言といった定型詩とは違って元の曲に合わせて謡われるために句の長短が様々であるのが特徴である。

宋初に於いては寇準などの詞が挙げられるが、仁宗朝になってからが真の隆盛期といえる。この時期の詞人としては晏殊・欧陽脩・張先・柳永らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開いた人物として重要である。

張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名(詞牌)のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。また張先により詞はふとした日常的な事柄が詠まれるようになり、この時期をもって詞は詩と共に文学として士大夫の間に広まっていったと考えられる。

柳永は科挙を受けるために開封にやってきたが、そこで身を持ち崩して娼館に入り浸るようになったという人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫たちからは激しく批判された。これまでの詞は小令と呼ばれる六十字までの物がほとんどであったが、民間に於いては慢詞と呼ばれる長文の物が主流であった。これが柳永の登場以降、士大夫の間でも慢詞が謡われるようになった。

この流れを受けて、神宗期に於いて最も重要な詞人が蘇軾である。蘇軾は通判として杭州に赴任した際に張先と親交を結び、その影響を大きく受けた。しかし蘇軾の天才はそこに留まらず、従来詞には登場しなかった『三国志』の赤壁の戦いなど勇壮なテーマを選び、新しい境地を開いた。後に蘇軾の詞は豪放派と言われることになる。しかし蘇軾の詞はその門人陳師道から「詩を以って詞を為(つく)る」と詞の本道から外れているとも批判されている。

#詩の節で紹介した蘇門四学士はいずれもまた優秀な詞人でもあったが、その中でも秦観が最も文名が高く、師とは違って繊細で叙情的な詞を得意とする。

徽宗朝に入り、これらの流れを受けて詞を集大成したのが周邦彦である。周邦彦は音楽に詳しく、徽宗に命ぜられて大晟府という音楽の部署を作った。その詞風は「渾厚和雅」と評される。表現が露骨でなく奥深く、全体の調和が取れて雅であるという意味である。周邦彦の影響力は極めて大きく、南宋の詞人は全て周邦彦を出発点としてそこから派生していったといえる。

もう一人取り上げるべきは女流詞人李清照である。李清照は口語的な表現を多用し、女性らしい繊細な感情表現が特徴である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki