宋における文学は唐中期の古文運動を引き継いでいる。古文運動とは六朝時代の四六駢儷体と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の内容を重視した文章への復帰を目指す運動である。
この流れは『新唐書』『新五代史』の編者として知られる欧陽脩により宋文学の主流となり、唐宋八大家と呼ばれる名文家が活躍した。八大家以外では黄庭堅・范仲淹・司馬光らの名前が挙がる。
漢文・唐詩・宋詞・元曲と後世に言われるように宋は五代を引き継いで、詞が大きく隆盛した。
詞は唐代の燕楽(宴楽)を源流とする。宴楽という語の示すように宴席で演奏される曲に付けた歌謡が詞である。#詩の項目で述べたように宋代になると詩は士大夫の物とされたために抑制的で叙事的なものになり、叙情的な詩は少なくなった。これに対して詞は叙情的な物が多く、また詩に於いては扱うことがタブーとされた恋愛に関する歌など俗なテーマも多く取り入れており、また七言や五言といった定型詩とは違って元の曲に合わせて謡われるために句の長短が様々であるのが特徴である。
宋初に於いては寇準などの詞が挙げられるが、仁宗朝になってからが真の隆盛期といえる。この時期の詞人としては晏殊・欧陽脩・張先・柳永らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開いた人物として重要である。
張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名(詞牌)のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。また張先により詞はふとした日常的な事柄が詠まれるようになり、この時期をもって詞は詩と共に文学として士大夫の間に広まっていったと考えられる。
柳永は科挙を受けるために開封にやってきたが、そこで身を持ち崩して娼館に入り浸るようになったという人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫たちからは激しく批判された。これまでの詞は小令と呼ばれる六十字までの物がほとんどであったが、民間に於いては慢詞と呼ばれる長文の物が主流であった。これが柳永の登場以降、士大夫の間でも慢詞が謡われるようになった。
この流れを受けて、神宗期に於いて最も重要な詞人が蘇軾である。蘇軾は通判として杭州に赴任した際に張先と親交を結び、その影響を大きく受けた。しかし蘇軾の天才はそこに留まらず、従来詞には登場しなかった『三国志』の赤壁の戦いなど勇壮なテーマを選び、新しい境地を開いた。後に蘇軾の詞は豪放派と言われることになる。しかし蘇軾の詞はその門人陳師道から「詩を以って詞を為(つく)る」と詞の本道から外れているとも批判されている。
#詩の節で紹介した蘇門四学士はいずれもまた優秀な詞人でもあったが、その中でも秦観が最も文名が高く、師とは違って繊細で叙情的な詞を得意とする。
徽宗朝に入り、これらの流れを受けて詞を集大成したのが周邦彦である。周邦彦は音楽に詳しく、徽宗に命ぜられて大晟府という音楽の部署を作った。その詞風は「渾厚和雅」と評される。表現が露骨でなく奥深く、全体の調和が取れて雅であるという意味である。周邦彦の影響力は極めて大きく、南宋の詞人は全て周邦彦を出発点としてそこから派生していったといえる。
もう一人取り上げるべきは女流詞人李清照である。李清照は口語的な表現を多用し、女性らしい繊細な感情表現が特徴である。「天仙子」張先 水調數聲持酒聽
午醉醒來愁未醒
送春春去幾時回
臨?鏡
傷流景
往事後期空記省
沙上並禽池上暝
雲破月來花弄影
重重簾幕密遮燈
風不定
人初靜
明日落紅應滿徑「甘草子」柳永 秋暮
亂灑衰荷
顆顆真珠雨
雨過月華生
冷徹鴛鴦浦
池上凭欄愁無侶
奈此個
單棲情緒
卻傍金籠共鸚鵡
念粉郎言語「念奴嬌」蘇軾 大江東去
浪淘盡 千古風流人物
故壘西邊
人道是 三國周郎赤壁
亂石崩雲
驚濤裂岸
捲起千堆雪
江山如畫
一時多少豪傑
遙想公瑾當年
小喬初嫁了
雄姿英發
羽扇綸巾
談笑間 強虜灰飛煙滅
故國神遊
多情應笑我
早生華髮
人間如夢
一樽還?江月「瑞龍吟」周邦彦 章臺路
還見褪粉梅梢
試花桃樹
??坊陌人家
定?燕子
歸來舊處
黯凝佇
因記箇人癡小
乍窺門?
侵晨淺約宮?
障風映袖
盈盈笑語
前度劉郎重到
訪鄰尋里
同時歌舞
唯有舊家秋娘
聲價如故
吟牋賦筆
猶記燕臺句
知誰伴、名園露飲
東城?
事與孤鴻去
探春盡是、傷離意緒
宮柳低金縷
歸騎?、纖纖池塘飛雨
斷腸院落
一簾風絮「声声慢」李清照 尋尋覓覓
冷冷清清
淒淒慘慘戚戚
乍暖還寒時候
最難將息
三杯兩盞淡酒
怎敵他、?來風急
雁過也
正傷心
卻是舊時相識
滿地?花堆積
憔悴損
如今有誰堪摘
守著窗兒
獨自怎生得K
梧桐更兼細雨
到?昏點點滴滴
這次第
怎一個愁字了得
歴史の分野では前述の『新唐書』『新五代史』があり、そして司馬光による編年体の『資治通鑑』がある。『旧唐書』・『旧五代史』はどちらもずさんな事で有名であり、それに不満を持った欧陽脩が自ら書き直した物である。『資治通鑑』は紀元前403年の戦国時代の開始から宋が成立する寸前までを書いており、二十四史には入らないものの名著として称えられる。
宋代は水墨画、山水画の分野の勃興期であり、多くの名品が描かれている。宋代の画壇には二種類の流れがあり、朝廷に作られた翰林図画院(略して画院)と呼ばれる国立美術アカデミーの中で生まれた院体画と民間の士大夫による文人画の二つである。
院体画は形式を重視し、写実的な描写を尊ぶ。代表としては『桃鳩図』などを残した徽宗が挙げられる。文人画は自由奔放で作者の情緒の表現を尊ぶ。代表としては独自の米法山水と呼ばれる山水画の手法を編み出した米?が挙げられる。
書蘇軾・「寒食帖」部分黄庭堅「経伏波神祠詩巻」部分米?「呉子舟中詩巻」部分
唐代の「形」を尊ぶ書に対して北宋の書は「意」を尊ぶことに特徴があるとされる。「意」とは書の上で作者の個人としての性・精神性が表現されることを言う。
北宋を代表する書家としては蘇軾・米?・黄庭堅・蔡襄の四人がて挙げられる。但し蔡襄は元は蔡京であったのが悪名のために蔡襄に代わったとも言われ、蔡襄・蔡京共に唐以来の「形」を尊ぶ伝統的な書であり、北宋の「意」を尊ぶ書の代表としては前三者が適当と言える。
#詩の節で述べたように蘇軾・黄庭堅は師弟関係にあり、書の上でも深い関係があった。蘇軾の書はその詩と同じく自由闊達、黄庭堅もまたその詩と同じく技巧を凝らした点に特徴がある。