井田制以来、一家が暮らしていくのに100畝の土地が必要であるとされており、上等戸と下等戸の区別もこの100畝が大体の基準になっている。しかし主戸の八割を占める下等戸層の平均的な土地所有量は20から5畝という量で下等戸層全ての所有地をあわせても二割強という量であった。つまり全体の二割の上等戸が八割の土地を所有していたことになる。
この少ない土地からの収入だけでは一家を支えることができず、自らの土地を耕す一方で小作にも従事し、さらにそれでも足らずに上等戸からの借り入れで賄うことも多かった。この利率が10割にも及ぼうかという超高利であり、利息を払いきれずに自らの土地を売却して完全小作農化することもあった。王安石の青苗法はこれを回避し、小規模自作農の自立を促さんとするものであったが、頓挫した。
佃戸とは小作農のことであり、地主の土地を耕してその収穫の半ばほどを収める。佃戸は奴婢ではなく、完全な良人である。佃戸の存在形態がどのようなものであったかについては学者の間でも意見が分かれている。
佃戸には主僕の分と呼ばれる身分的差別があり、主家が佃戸に対して犯した犯罪は軽く、その逆は重い刑罰が科された。また主家と佃戸の結婚は認められなかった。また自由な移転が認められず、主家の家内にて労働をさせられることもあった。このことから佃戸を農奴に類したものとみる見解がある。
一方で、佃戸に対して土地が多い地域では地主による佃戸の取り合いがあり、またより良い条件(高い田租)を出した佃戸に切り替える例などもあることから地主佃戸関係をあくまで経済的関係と見る見方も有る。
佃戸の地主に対する隷属性を強調する前者と独立性を強調する後者との論争は決着を迎えないままで終わっており、現時点では佃戸の社会的地位がどのようなものであったかという問いに答えることはできない。この論争に付いては主戸客戸制に詳しく乗っているのでそちらを参照のこと。
北宋では首都・開封を初めとして特別な四都市を府とし、路と同格の行政区として扱った。
東京開封府
西京河南府(洛陽)
南京応天府(宋州、南京のことではなく現河南省商邸県。太祖の節度使としての任地であった。)
北京大名府(現河北省大名県)
唐宋変革は都市においても大きな変化を起こした。唐以前の都市はほとんどが政治の中心地としての存在であり、都市内部の社会経済は政府によって計画されたものであった。唐長安をはじめとした唐代の都市は碁盤目状に坊と呼ばれる区画が作られ、坊の間には全て塀が設けられた。市民の生活は基本的にこの坊の中で行うものであり、夜間になると坊と坊をつなぐ門(坊門)は閉じられ、通行は禁止された(城坊制)。商業に於いても商売を行いたいと思うものは役所に登録して市籍を獲得しなければならず、また東市・西市以外の区画で商売を行うこと、制限時間を超えて営業することは禁じられた(市制)。
これが宋代には大きな変化を遂げた。城坊制・市制共に唐宋変革の中で消滅していき、都市内部のそこかしこで商売が行われ、区画をはみ出して家が建てられるようになり、夜になっても活気が衰えなかった。人通りの多い場所には瓦市と呼ばれる大道芸人が集まる場所があり、三国時代・五代を題材にした講談・切り紙・影絵などが市民を楽しませた。都市の外にもそれは波及し、郊外で定期市(草市)が開かれるようになった。この草市を開く場所が集落化したところを市(し)として行政区分に入る。
これらの都市の繁栄は『東京夢華録』・『清明上河図』にて見ることができる。ただしこの両書はあくまで首都・開封を描いたものなので、これを即座に一般都市に敷衍するのは問題がある。
宋代開封の遺跡は現在の開封市の地下に埋まっており(主な原因は後年に黄河が氾濫し、多量の土砂が当地に運ばれたため)、1981年より発掘が進められている。
後周世宗が開封を建設する際に部下であった太祖を馬で走らせ、その馬が力尽きたところを開封の外城の場所としたという話が残る。開封には外城以外に内城と宮城の三枚の城壁が張り巡らされていた。出土した遺跡は南北が約7600m・東西が約7000mとやや南北が長い東側に少し傾いた長方形になっている。城壁は残っているもので底部の厚さが34.2m・頂点の厚さが4m・高さが9mである[11]
外城には東に2・西に3・北に4・南に3の門が、内城には南北に3・東西に2の門がそれぞれ設けられている。これらの門には朝陽・順天などといった正式名称があるが、一般庶民はそのような覚えにくい名前は使わずもっぱら俗称で呼んだようである。東壁の南の門は朝陽門であるが俗称は新宋門、同じく西壁の一番南の門は順天門であるが俗称は新鄭門という。門から伸びる道がそれぞれ宋州・鄭州につながることから付いた名前である。
また道路以上に重要な役割を果たしたのが、城内を貫通する運河である。開封城内は?河を初めとした四本の河が貫通しており、ここから繋がる大運河の使用により遠く江南まで行くことができた。この運河を使用して開封で消費される莫大な量の食料が輸送された。
開封城内では広壮な建築物が並ぶ。宮城や官庁といった政府の建物は無論であるが、民間の建物が非常に目立つ。巨大な伽藍を持つ寺院・道観、庶民が親しんだ酒楼・劇場などである。酒楼のもっとも大きな物の廊下は端から端まで100歩を要したといい、その楼閣から宮城を覗き込むことが出来たという。また劇場は数千人を収容することが出来たという(ただし数千という数字は数十の誤写ではないかとも指摘されている)。
宋代の初期には、皇帝の詔勅による文化事業として、「四大書」と総称される大部な書物の編纂が、相次いで行われた。978年(太平興国3年)の『太平広記』500巻、983年(太平興国8年)頃の『太平御覧』1000巻、986年(雍熙3年)の『文苑英華』1000巻、1013年(大中祥符6年)の『冊府元亀』1000巻である。
宋代には経済の発達と共に各種の実用技術の発達も見られており、方位磁石の発明がなされている。また火薬・印刷の技術も本格的に運用されるようになり、社会の様々な面で利用されるようになった。
製紙・印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで一部の官僚・貴族に独占されていた文学・思想などが市民の間にも行われるようになった。
唐五代に於いては仏教・特に禅宗の隆盛に押され、あまり振るわなかった儒教であるが、宋に入って新たな儒教が興り始めた(ただし本人たちの意識は復古であったが)。北宋・南宋に於ける儒教の新しい流れを一括して宋学[注釈 3]と呼ぶ。
宋学内の主な学派として、王安石・王?親子の新学、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀学、張載の関学、程・程頤兄弟の洛学である。それ以外に重要な人物としては周敦頤・邵雍などが挙げられる。この節で各派の違いを取り上げることは詳細に過ぎるので、北宋の諸学に共通する事柄と北宋期に於ける重大な変化および後の朱子学に繋がる重要事項を挙げるに留める。
北宋期に於ける儒学史を考える上で留意する点が二つある。一つは、道統論に付いてである。