北宋
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10 脚注

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歴史


建国

の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の後周の二代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋太祖の趙匡胤である。趙匡胤

世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが959年に39歳の若さで急死。あとを継いだのはわずか七歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[1])の地位にあったが、翌960年に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ)

このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが付いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた節度使から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることに成功した。

更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体はの時代に始まったものであるが、武人優勢の五代に於いては科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。

体制固めと平行して、太祖は963年より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北荊南であり、更に湖南を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌964年からは後蜀を攻撃して965年にこれを降し、970年には南漢974年には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は976年に唐突に崩御。

後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、978年には呉越が自ら国を献じ、更に979年に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。

また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの十人前後から一気に2百人超までに増やし制度の充実を図る。

五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。宮崎市定はこの三者をそれぞれ織田信長豊臣秀吉徳川家康になぞらえている[2]


?淵の盟

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太宗は984年に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催され、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。

しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。1004年、北方のが南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ち、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(?淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも1005年、財貨を送ることで和睦した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen