明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると、勝は幕府に呼び戻され、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
先ず3月9日、山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会談して基本条件を整えた。続く13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われた。
この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。
余談だが、勝は交渉が完全に決裂した時は新政府軍もろとも江戸に火を放つ焦土戦術の準備もしていたと言う。その時に備え、将軍の亡命や江戸住民の避難の準備も整えていたが、無血開城によりこの最終手段は実行されなかった。
維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を授予された。[14]。
勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。
座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。
勝は日本海軍の生みの親のひとりに数えられる人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対の立場だった。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物だった。丁は敗戦後に責任をとって自害しているが、勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿した。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、中国大陸の大きさや中国という国のありようを説いた。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟の予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と述べている。
勝と徳川慶喜は、幕末の混乱期には何度も意見が対立していたが、晩年にはその慶喜を赦免させるよう政府に働きかけている。慶喜はこのおかげで明治天皇の特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の生活保護など、幕府崩壊による混乱を最小限に抑える努力を30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げたりしたのも勝の功績である。
晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。
明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であった[15]。
墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。
(明治5年12月2日までは旧暦)
天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
安政2年(1855年)
1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用と就る。
7月29日、海軍伝習重立取扱と就る。
8月7日、小普請組から小十人組に組替。
安政3年(1856年
3月11日、講武所砲術師範役と就る。
6月30日、小十人組から大番に替わる。
安政6年(1859年)11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。
安政7年(1860年)
1月13日、品川より咸臨丸出航。
2月26日、サンフランシスコに入航。
閏3月8日、サンフランシスコを出航。
改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。
5月7日、江戸に帰府。
6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助と就る。石高400石取りとなる。
文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
文久2年(1862年)
7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1000石。
文久3年(1864年)
2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。
改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。
11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
慶応4年(1868年)
1月17日、海軍奉行並に異動。役高5000石。列座は陸軍奉行並の上。
1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。
2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
3月13日と同月14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
明治2年(1869年)
7月13日、諱を安芳と改める。
7月18日、維新政府の外務大丞に任官。
8月13日、外務大丞を免ず。
11月23日、兵部大丞に任官。
明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を免ず。