(明治5年12月2日までは旧暦)
天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
安政2年(1855年)
1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用と就る。
7月29日、海軍伝習重立取扱と就る。
8月7日、小普請組から小十人組に組替。
安政3年(1856年
3月11日、講武所砲術師範役と就る。
6月30日、小十人組から大番に替わる。
安政6年(1859年)11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。
安政7年(1860年)
1月13日、品川より咸臨丸出航。
2月26日、サンフランシスコに入航。
閏3月8日、サンフランシスコを出航。
改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。
5月7日、江戸に帰府。
6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助と就る。石高400石取りとなる。
文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
文久2年(1862年)
7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1000石。
文久3年(1864年)
2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。
改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。
11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
慶応4年(1868年)
1月17日、海軍奉行並に異動。役高5000石。列座は陸軍奉行並の上。
1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。
2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
3月13日と同月14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
明治2年(1869年)
7月13日、諱を安芳と改める。
7月18日、維新政府の外務大丞に任官。
8月13日、外務大丞を免ず。
11月23日、兵部大丞に任官。
明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を免ず。
明治5年(1872年)
5月10日、海軍大輔に任官。
6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。
明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。
明治8年(1875年)
4月25日、元老院議官に異動。
4月27日、元老院議官を辞表を提出。
11月28日、元老院議官を免ず。
明治20年(1887年)
5月9日、伯爵を受爵。
12月、従三位に昇叙。
明治21年(1888年)
4月30日、枢密顧問官に任官。
10月、正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。
明治22年(1889年)
5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。
12月、勲一等瑞宝章を受ける。
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。
明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。
明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。
明治31年(1898年)2月26日、旭日大綬章を受ける。
明治32年(1899年)
1月19日、死去。
1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。
回想録として吉本みのるによる『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。これは勝の談話を記者が速記したもので、勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄のあとが見られるという。
膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝『夢酔独言』(平凡社・東洋文庫)と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の『坊つちやん』の素材となっている。
語録
自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
オレは、瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった
やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)
文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
敵は多ければ多いほど面白い。
我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて)
コレデオシマイ(亡くなった時の言葉)
ファンといっていいほど高い評価をする人がいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかる。
一方、江戸を無血開城した功績は感謝しているものの、旧幕府の高官でありながら新政府に勤めて立身していることに対する嫉妬や反感もある。その決定版が福澤の「痩我慢の説」である。そこでは、幕臣としての節操を護るべきであると非難されている。
勝海舟の仕事は江戸開城をもって終わりとする見方も多いが、明治に入ってからの32年間の行動(明治天皇と慶喜との和解・旧幕臣の名誉回復など)の研究が待たれる。
死の三日後、氷川邸に勅使が来て勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。