甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。
封禅は聖天子以外行うことが出来ないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。
武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることが出来ず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。
このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。
高祖は自らの父である劉太公を祀る廟を作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年に韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。
また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九[11]になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の四代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。
史上初の元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見されたことからこの年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中国では中華人民共和国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。
またそれまでの10月を正月としていた??暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。
当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。
敦煌漢簡・居延漢簡の中の文書からある程度当時の物価が推測できる。それによれば、
絹一匹(27.65m)=450-477銭
アワ1石(30kgほど)=105-130
キビ=150
大麦=110
麦=120
肉1斤(258.24g)=4-7
とある[13]。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。
戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。
その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代においても引き継がれ、唐で開元通宝が作られる621年まで続いた。
この五銖銭の発行を契機として、それまで急速に発展してきた貨幣経済は衰退に向かう。
税の徴収は人頭税・土地税・財産税の3種類に分かれ、更に労働税として兵役と徭役がある。人頭税には16歳から56歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める口算と7歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口賦がある。財産税は咨算と呼ばれ、財産1万銭に付き年間1算を収める。口算と咨算を合わせて算賦と呼ばれる。また商人は口算を2倍を収めねばならない。農業に対する税は収穫高の30分の1を収めることになっていたが、この税額は極めて薄く、時にこの税は廃止されたこともあるので国家財政の主要な部分は占めていなかったようである。
労働税は年間に決まった期間を労働あるいは周辺防衛に費やすことを義務付けられいたが、300銭を収めることで労働を逃れることが出来た。この銭のことを更賦と呼ぶ。
武帝期になると相次ぐ遠征費用を捻出するために算?銭(?は糸偏に昏)と言う税を加えた。これはそれまでの咨算の額を引き上げて、商人には財産2千銭に付き1算(一般民衆の5倍)を手工業者には4千銭に付き1算(一般民衆の2.5倍)を課すものである。またそれとは別に個人が持つ車と船に対する税・算車令と算船令を出し、更に口賦の額を3銭引き上げて23銭とした。
この増税は主に商人が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。またこの令には罰則があり、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備へと強制的に回されると言う非常に厳しいものである。この増税策により相当な額が国庫に流れ込み、武帝の政策を支えたが、その一方で破産した商人達は地方の窮迫農民と手を組んで盗賊行為を働くようになり、武帝末期の社会不安の主要素となっている。
成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。
当時の農業技術はどのようなものであっただろうか。戦国時代から鉄制農具と牛耕が普及し始め、大幅な生産力の向上をもたらした。しかし漢代においてはいまだ地方によっては普及していないところも多かったと考えられ、地域による生産力の格差はかなり激しかったと思われる。この時代には苗床が作られず、二毛作もまだ存在しない。
『漢書』には武帝末期の趙過という人が考えた代田法という農法があることを記述している。その具体的な内容に付いては記述が曖昧でどう解釈するかに議論があるが、二頭のウシと三人の人間によって行われるものであったという。しかし民間でウシを二頭持っている者は少なかったのであまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。
牧畜は、一般農民でもブタやニワトリ・イヌなどを飼うことはごく普通に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。