前漢
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呂氏の専横

紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、更にその母の戚氏残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は少帝恭少帝弘を相次いで帝位に付けるが、少帝弘は実際には劉氏ではなかったとされる。

呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせた。「劉氏にあらざる者は・・・」という皇族重視の国家体制の変質である。呂后は呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去した。呂后の死去に伴い反呂氏勢力が有力となり、朱虚侯の劉章丞相陳平太尉周勃らが中心となり呂産を粛清、呂氏一族は殺害され、呂氏の影響力は宮中から一掃された。


文景の治

呂氏の粛清後に皇帝として即位したのが王であった劉恒(文帝)である。

秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。

紀元前157年に文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う[2]。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた[3]。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。

しかし国力の回復と共に、貧富の格差の拡大と諸侯王の勢力の増大とが新たな問題として浮上してきた。

農業生産が増大したことに伴い、商業活動もまた活発化し、商人の経済力も飛躍的に増大した。その財力で農民たちの土地を買い上げ、更に財を積み上げていった。物を生産しないで巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の晁錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。(#豪族を参照のこと。)

また生産の回復は中央の勢力を増大させたが、それと同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められ、半独立国の様相を呈していた。これを抑圧することを提言したのが晁錯である。晁錯は諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉?が中心となって紀元前154年呉楚七国の乱を起こす。この乱は周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。

これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。


全盛

景帝は紀元前141年に崩御し、劉徹(武帝)が即位した。武帝は文景の治で充実した国力を背景に積極的な施策に乗り出す。

内政面においては郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。

外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑[4]の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では四人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は七度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという大戦果を挙げた。これにより匈奴は北方への移動を余儀なくされ、漢は新たに獲得した西方に朔方・敦煌などの郡を設け統治を開始した。

また朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡を設け新たな直轄領とした。また匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛などとの関係構築を模索し、結果としていわゆるシルクロードの交易路が開け、西方の文物が漢にもたらされるなどの影響を与えている。

しかし相次ぐ軍事行動は財政の悪化をもたらし、また文帝時代から進んでいた商人の伸長とそれによる富の偏在なども深刻な問題となった。これら大富豪たちは後に豪族と呼ばれる存在に成長していくこととなる。

武帝は経済官僚である桑弘羊を登用して塩鉄専売制を開始、また商人に対しては均輸・平準を行い、商工業者に対して新税を設置、国家収入の増大を図った。しかし専売と新税により経済活動に打撃を受けた商人は没落し、貧民たちを指揮して盗賊化した者も発生した。

社会不安に対しては武帝は酷吏と呼ばれる法家系の官僚を登用し、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。

晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の乱)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。

武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題点が噴出した時代でもあった。


霍光と宣帝

巫蠱の乱の後の皇帝の後継者は長期間空白が続いていたが、武帝は崩御の直前に僅か八歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光桑弘羊上官桀金日?に後見役を命じた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki