則天文字
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文字の伝播と新たな文字の制定

載初元年(690年)七月、聖母神皇(即位前に武則天が自身をこう呼ばせた)の武則天は、仏典『大雲経』の中に「彌勒降生」、「女子為王」といったことが書かれていたことを利用して、洛陽白馬寺住持薛懐義に命じて注釈書『大雲経疏』を書かせ、その中で「武則天が皇位に就く事は仏典に定められていることだ」と宣伝させた。この本は全国各地に頒布され、この本と共に、則天文字も全国に広まった。なお、薛懐義は武則天の愛人であるとされている。

690年10月16日、この日は(中国暦で)重陽の節句であり、武則天は正式に皇位に付き、年号を載初から天授に改めた。天授年間、授の字がに変えられた(天の字はすでにに変えられている)。證聖に改元されると、證の字はに、聖の字はに改められた。証聖元年(695年)六月下旬、國(国)の字がに改められた。聖暦年間(698年)、人の字に代わってが登場した。

則天文字は、以上の17字と考えられている。時に21字と言われることもあるが、これは昔の学者が唱えた説が未だに信じられているためである。


使用の廃止

則天文字は、武則天が皇位に就いていた[3]15年間(690年?705年)には広く使用されており、石碑や仏典などに盛んに記された。現存する武周時期(武則天の治世)の碑銘、墓誌銘によく現されている。

武則天は705年に中宗に皇位を譲ると、まもなく他界した。中宗は全ての制度を昔の高宗永淳時代に戻すように命じ、合わせて則天文字も廃止された。これに対して武則天の親戚の武三思らは、皇后の韋后や女官の上官婉児と結託して、張柬之ら重臣5名を追放し、権勢を揮った。これを機会に、時任左補闕の権若訥は中宗に奏上し「則天文字を復活させることが他界した母親への孝行である」と提案した[4]。中宗は概ね権若訥の指示に従っていたが、則天文字の復活だけは認めなかった。文宗の治世となっていた開成二年(837年)十月、則天文字を元の文字に直すことを命じる詔書が改めて頒布された[5]。これは逆にいえば、この時まで則天文字が使われていたことを意味し、150年間通用していたことになる。


解説

原字新字新字拡大Unicode字義
照 ⇒?66CC「照」。武則天の名を表す。則天文字で最も有名なものの1つ。「日」と「月」と「空」を合わせたもので(異説もある)、武則天があまねく世界を照らしていることを意味する。日は陽の象徴、月は陰の象徴であり、武則天が陰陽調和し、男帝を含めた全ての皇帝の中で最も優れていることを示唆している。武則天はこの字を名にすることで、自らの正当性を主張した。
照 ⇒?77BE「照」。「?」の異体字と考えられている[6]。あるいは字書の作者が「?」の字を避諱してあえて間違った字を書いたとも言われている。
天 ⇒?2047A「天」。詳細は次項で。
天 ⇒?20011「天」。天の字の篆書体をさらに活字体にしたものとみられる[7]も手書きにすると同じ「」であり、活字彫刻者の違いと見られる。
地 ⇒?57CA「地」。「山、水、土」の3字を合わせたもので、「山」の「水」が「土」に到達する所、すなわち大地を意味する。ただし、この字は則天文字以前にも例がある[8]
日 ⇒?211A0「日」。この字は、中国神話中の太陽神鳥金烏を意味している[9]。「口」は手書きでは「○」になるので、実際には「」として使われており、この字も活字作者によって○が口に直されたものとみられる。
月 ⇒?56DD「月」。口は満月の輪郭を表し、「子」は中国神話に言う月のウサギか金の蛙を意味していると見られる[10]。「口」は満月を表しているので、次の「」よりも好字の印象がある。現代中国では「仔」の異体字とされる。
月 ⇒?20971「月」。「匚」は三ヶ月を表しており、「出」の字は中国神話に出てくる金のヒキガエルを意味している[11]。一説によると、「」(則天文字の「生」)の異体字である。
星 ⇒3007「星」。星の球形を表している。典型的な象形文字。現代中国では「0」と同義であり、「西暦二〇〇〇年」のように用いられる。
君 ⇒?20E9E「君」。「天大吉」の合字。その後、「」に変化した[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki