波浪の少ない天然の良港として、中世から港として利用されてきた。江戸時代には北前船の寄港地として、明治以降は北海道の玄関地および北洋漁業の本拠地として繁栄した。現在、函館港では主に国内貨物が扱われ、セメントや石材が移出され、石油製品や廃棄物などが移入されている。取扱高は北海道全体の約15%で、苫小牧港・室蘭港に次いで道内3位である。また、港奥に埋積した大量の土砂を処理するために、浚渫土を使って作られ約8ヘクタールの人工島・「緑の島」が港の南部にある。
函館湾内の箱館一帯はかつて宇須岸(うすけし)と呼ばれ、15世紀には河野氏がいた[1]。アイヌの攻撃を受けて一時後退したが、16世紀初頭には宇須岸には若狭国から毎年3回商船が来航し、海岸には問屋が並んでいた[2]。宇須岸は天然の良港で「纜知らずの湊」とも呼ばれて交易が盛んになったが、1512年(永正9年)にはアイヌに攻撃され、その後は和人は松前と上ノ国に集まり、宇須岸は衰退したという
松前藩は亀田を和人地の東限とし、箱館は空家などが見られ、函館湾に流入していた亀田川河口の亀田湊の方が繁栄していたとされる[3]。この頃には箱館湊という表記が使われており、1717年(享保2年)の『松前蝦夷記』によると、やがて亀田湊に土砂が流入して廻船が寄港できなくなり、代わって箱館湊が利用されるようになったとされる。箱館では亀田半島南岸で産出する昆布が盛んに買われた。享保年間に松前藩が場所経営を請負制にしてからは物流が活発になり、寄港する船舶が増加した。1739年(元文4年)の記録では、箱館は廻船が寄港して繁昌し、奥羽で最も波浪が穏やかな港のため東回り廻船が天候の様子見をしていた、とある[4]。
松前城下近郊で採れた昆布のほか、蝦夷地東部からの集荷も担当したために箱館湊は飛躍的に発展した。このため亀田にあった亀田番所は1741年(寛保元年)に箱館に移設され、この番所で沖之口業務も行なわれた。。なお、『蝦夷島奇観』によると移設は1747年(延享4年)ともされる。さらに1785年(天明5年)には長崎俵物会所が箱館に設置され、北国の俵物の集荷拠点となった。『東遊記』は松前や江差に比べ、箱館湊はどの方向の風でも問題がなく便が良いとしている。 19世紀に入ると1801年(享和元年)に内澗町に掘割が、1804年(文化元年)には堤の先に築島して造船所が、1811年(文化8年)には沖之口番所がそれぞれ設けられた。箱館を拠点とし蝦夷地御用定雇船頭にも任命された高田屋嘉兵衛は、国後島や択捉島、根室などの場所を請負い、豪商として箱館の発展に寄与している。
1854年(嘉永7年)に日米和親条約が締結された後、マシュー・ペリーは旗艦以下5艦を率いて嘉永7年4月21日(1854年5月17日)に箱館湊に入港して測量などを行なった。この際、複数の乗組員が箱館とイベリア半島先端のジブラルタルがよく似ているとの印象を受けたという[5]。 一方、この条約で翌1855年(安政2年)から薪水や食料の補給港として箱館が開港される事になったため、江戸幕府は箱館付近を直轄領として箱館奉行を置き、湊の防衛と外交のために奉行所移転を進めた。1859年(安政6年)には砂洲の中央の南北方向に願乗寺川の掘割が作られ、運搬用の小舟が運行できるようになった。外国との貿易が始まると鯣、昆布などがイギリスやアメリカに輸出されたが、横浜港や長崎港よりも貿易額はかなり低かった。
明治維新後は1869年(明治2年)に開拓使の所管となって函館港と呼ばれ、1879年(明治12年)から港湾整備の調査が行われた。担当の内務省技師・モルトの提言に基づき、亀田川を付替えて津軽海峡に面する大森浜へ向かわせ、砂や泥の港への流入を防いだ。同年に開拓使は三菱会社に青函航路を運営委託したが貨物の扱いなどの評判が悪く、1882年(明治15年)に開拓使が廃止されて農商務省に移管された後、船は北海道運輸会社に貸与された。同年に北海道運輸が合併して共同運輸会社を設立して青函航路を開設すると、三菱との間で激しい競争が起きた。共倒れの懸念などから政府が仲裁し、1885年(明治18年)9月に両社が合併して日本郵船株式会社が設立された。 1896年(明治29年)から函館港の本格整備が始まり、港内の浚渫や砂防堤・防波堤・灯台の設置、埋立てによる埠頭の建設などが行われた。