冷戦
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新冷戦(1979年-1985年冷戦の多様化―1980年の世界(ワインレッド=ワルシャワ条約機構加盟国、赤=同条約加盟国以外の東側諸国、朱色=共産主義国家以外のソ連よりの諸国、紺=NATO加盟国、青=同加盟国以外の西側諸国、灰色=非同盟諸国永世中立国、赤い点=左翼ゲリラ運動発生地域、青い点=反共ゲリラ運動発生地域)

1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年ロサンゼルスオリンピックボイコットした。またアメリカはアフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助したため、ソ連はアフガニスタンを完全に制圧することができなかった。侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。

ところで、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別に、もうひとつの勢力があることに気がつき始めた。それはイスラム原理主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館員が人質になるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した。

このイラン革命によって中東は動揺し、1981年イラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソはイスラム革命が世界に広がることを恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は8年の長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになるとは誰も予想しなかった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1988年に泥沼のアフガンから撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。

主な出来事

イラン革命(1979年)

イラン・イラク戦争(1981年?1988年)

ロナルド・レーガンによる「悪の帝国」発言と戦略防衛構想1983年


終結過程(1985年-1991年INFに調印するミハイル・ゴルバチョフロナルド・レーガン

1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、国内体制の改善と大胆な軍縮提案を行い、西側との関係改善に乗り出す。1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争アンゴラ内戦1988年から順次終結、リビアフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も88年から和平会議が開催された。

ソ連は東欧諸国に対しても改革を促し、1989年にポーランドポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代、ハンガリーチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ住民が西ドイツへ大量脱出した。このため11月には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでは革命に抵抗したチャウシェスク大統領夫妻が処刑され、共産党政権が崩壊した(東欧革命)。12月、地中海マルタ島でゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ会談し、冷戦の終結を宣言した。

一方、ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニアが主権宣言、1989年7月にリトアニア共産党がソビエト共産党からの独立を宣言した。1990年3月から6月にかけてに東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、最高会議は独立宣言を採択した。これを受け、ロシアも6月に主権宣言を出し、連邦からの離脱を表明した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki