1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉(SALT)を開始、1972年と1979年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。一方、ソ連を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、リチャード・ニクソンが1971年に中華人民共和国を電撃訪問し、東アジアにおける冷戦の機軸であった米中関係が改善、1972年には日本が中華人民共和国と国交正常化した。また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、ベトナムは完全に赤化され、アメリカは敗北を味わうことになった。
ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立につながった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
一方アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争がおこっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼となった。
また、ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア、ラオス、エチオピアの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、南イエメンでは共産主義勢力に加担して紛争に介入した。ほかにビルマ、アルジェリア、コンゴ、イラクといった、アメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
新冷戦(1979年-1985年)冷戦の多様化―1980年の世界(ワインレッド=ワルシャワ条約機構加盟国、赤=同条約加盟国以外の東側諸国、朱色=共産主義国家以外のソ連よりの諸国、紺=NATO加盟国、青=同加盟国以外の西側諸国、灰色=非同盟諸国、永世中立国、赤い点=左翼ゲリラ運動発生地域、青い点=反共ゲリラ運動発生地域)
1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。またアメリカはアフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助したため、ソ連はアフガニスタンを完全に制圧することができなかった。侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
ところで、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別に、もうひとつの勢力があることに気がつき始めた。それはイスラム原理主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館員が人質になるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した。
このイラン革命によって中東は動揺し、1981年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソはイスラム革命が世界に広がることを恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は8年の長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになるとは誰も予想しなかった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1988年に泥沼のアフガンから撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
イラン革命(1979年)