逸話など「最後の太政大臣」
三條實美「超然主義」
黒田清隆
三條實美の処遇
内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めたのは英語力だったのである。伊藤の内閣総理大臣就任に伴い、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになったが、そもそも内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職で、その実は二階に上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は、三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている(『尾崎三良自叙略伝』)。また、さすがの明治天皇も気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職すると、天皇は黒田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を臨時兼任させた。臨時「代理」ではなく、「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2ヵ月も経ってからのことだったので、この2ヵ月間は一つの内閣が存在したものとして「三條暫定内閣」と呼ばれる。ただし、それでも三條實美は歴代内閣総理大臣には数えないことになっている。「小日本主義」
石橋湛山
選挙
現職内閣総理大臣が選挙で落選した例はないが、内閣総理大臣経験者が選挙で落選した例として片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)の例がある。
学歴
歴代の内閣総理大臣には東京帝国大学出身の者が多いが、新制大学移行後の東京大学出身者はまだいない。
年齢
衆議院議員に立候補できる年齢は公職選挙法によると25歳。総理大臣の年齢については、厳密な明記がされていないため内閣総理大臣になれるのも25歳からとなる。衆議院議員であれば誰でも立候補が可能であるが、政治経験等が重視されることが多いため1年生議員が就任する確率は極めて少ない。日本の歴代総理大臣の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)である。ちなみに戦後生まれ初の総理として就任したのは、2006年の安倍晋三(当時51歳)である。
栄典
内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位又は従二位、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章又は桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される。ただし、辞退・不祥事等による見送り事例は除かれる。
各種記録「政界の團十郎」
佐藤榮作「首相宮」
東久邇宮稔彦王「大隈財政」
大隈重信「三菱の大番頭」
加藤高明「美しい国」
安倍晋三「話せばわかる」
犬養毅「ダルマ蔵相」
高橋是清「古狸」