内閣制度発足当時から内閣総理大臣のことは一般に「首相」と呼ばれた。それにならって「外務大臣」は「外相」、「大蔵大臣」は「蔵相」などと他の「大臣」も「相」と呼ばれるようになり、「枢密院議長」までもが「枢相」と呼ばれた。これはかつて「太政大臣」を「相国」、「左大臣」を「左府」、「内大臣」を「内府」などと縮めたのと似ている。
首相の「相」は、かつて中国で皇帝の下で政務を司った官職の「宰相」や「丞相」の「相」が語源。日本でも平安時代以降には太政大臣を「相国」または「大相国」と呼んでいたことがある。後に宰相が複数になると、その首席のものを「首相」または「首揆」と呼ぶこともあった。
テレビのニュース番組で内閣総理大臣の呼称テロップでは、テレビ東京を除く在京民放キー局とNHKでは「首相」(テレビ東京のみ「総理」)と表記している。
かつて韓国と中国にも「内閣総理大臣」という名称の役職が存在した。
旧大韓帝国の首相の名称。
旧清帝国の首相の名称。
立憲君主制を志向した1908年の憲法大綱に基づき、1910年に西欧的な内閣制度を整備した。
初代首相は慶親王、二代首相は袁世凱。
他の国などでも首相の名称が使われている。
※詳しくは首相の項を参照。
逸話など「最後の太政大臣」三條實美「首相宮」東久邇宮稔彦王
内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めたのは英語力だったのである。
伊藤の内閣総理大臣就任に伴い、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常時輔弼」することになったが、そもそも内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職で、その実は二階に上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は、三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている(『尾崎三良自叙略伝』)。また、さすがの明治天皇も気の毒に思ったのか、1889年 (明治22年) 10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職すると、天皇は黒田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を臨時兼任させた。臨時「代理」ではなく、「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから二ヵ月も経ってからのことだったので、この二ヵ月間は一つの内閣が存在したものとして「三條暫定内閣」と呼ばれる。ただし、それでも三條實美は歴代内閣総理大臣には数えないことになっている。
内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位又は従二位、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章又は桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(辞退・不祥事等による見送り事例を除く)。
歴代の内閣総理大臣には東京帝国大学出身の者が多いが、新制大学移行後の東京大学出身者はまだいない。
現職内閣総理大臣が選挙で落選した例はないが、内閣総理大臣経験者が選挙で落選した例として片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)の例がある。
各種記録「政界の團十郎」佐藤榮作「三菱の大番頭」加藤高明「古狸」岡田啓介「ダルマ蔵相」高橋是清「五摂家筆頭」近衛文麿「今太閤」田中角榮
在任
最長在任数記録: 桂太郎 2886日
第一次 1901年6月2日〜1906年1月7日、第二次 1908年7月14日〜1911年8月30日、第三次 1912年12月21日〜1913年2月20日
最長連続在任数記録: 佐藤榮作 2798日
第一次〜三次 1964年11月9日〜1972年7月7日
最短在任数記録: 東久邇宮稔彦王 54日