1848年に共産主義者同盟の綱領的文書として発表された『共産党宣言(共産主義者宣言)』において、マルクスとエンゲルスは、資本主義社会をブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立によって特徴づけ、ブルジョア的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の目的とした。この革命によって階級対立の解消、国家権力の止揚へと向かい、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるようなアソシアシオンを形成することが共産主義の目標であるとした。またこの中で、共産主義者はこれまでの一切の社会秩序が暴力的に転覆されることによってのみ自己の目的が達成される、と宣言した。『共産党宣言』は共産主義者同盟の依頼で書かれたものであり、成立史的にはマルクスとエンゲルスの共著ではない。詳しくは共産党宣言の項を参照。
1873年に出版された『資本論』第二版には、「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」についての言及がある。社会的分業の一環としての労働が私的な労働として行われる商品生産社会を乗り越えた社会についての記述であり、事実上の共産主義論と見なされている。また、直接言及した箇所には第一版の「共産主義社会では、機械は、ブルジョア社会とはまったく異なった躍動範囲をもつ」、第二版の「共産主義社会は社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう。」がある。
1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。
エンゲルスは、1880年に出版された『空想から科学への社会主義の発展』において、生産手段の国有化によって計画生産を実施することをプロレタリア革命の課題とした。また、唯物史観と剰余価値説によって社会主義は科学となった、とし、自らの立場を科学的社会主義と称した。
社会民主主義の成長と挫折ソ連のプロパガンダポスター(1920年)
1880年代から1890年代にかけてドイツ社会民主党が急速に勢力を拡大し、第二インターナショナルの中心的政党となった。マルクス主義者のカール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなった。
1889年には社会主義者の国際組織として第二インターナショナルが設立され、ドイツ社会民主党が中心的な役割を果たした。しかし1914年に第一次世界大戦が始まると、加盟政党は国際主義的な戦争反対の主張を放棄してそれぞれ自国政府の戦争を支持し、第二インターナショナルは瓦解した。戦争反対を貫いたのはロシア社会民主労働党の分派であったボリシェヴィキをはじめとするごく少数だった。
ボリシェヴィキは1917年10月にロシアで武装蜂起を成功させ(十月革命)、権力を獲得した。1918年にドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱し、土地の社会化や労働者統制などの政策を実施した。また、党名をロシア共産党に変更し、1919年にはコミンテルンを設立してヨーロッパの革命を支援した。
しかし、革命とそれに続くロシア内戦の過程で共産党以外の政治党派はすべて非合法化され、ソビエトに基づいた民主主義は形骸化した。1924年にウラジーミル・レーニンが死ぬと、共産党内部での権力闘争が激しくなり、ヨシフ・スターリンが1930年代半ばまでに独裁的な権力を確立した。彼に対する個人崇拝も始まり、1936年から1938年までの大粛清によって、数百万の人々が犠牲になった。
1920年代末から農業集団化と五カ年計画が始まり、共産党は政治だけでなく経済も完全に支配することになった。
1924年、ソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた思想をソ連の現実に合わせる形で修正した。
マルクスやレーニンにとっては、共産主義革命とは世界革命であった。後進国の革命は先進国の革命と結びつくことによってのみ共産主義へ到達できるものとされていた。しかしスターリンは、1924年に発表された「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、ソ連一国だけでも社会主義を実現することが可能だとする一国社会主義論を主張した。そして、1936年のスターリン憲法制定時に、ソ連において社会主義は実現されたと宣言した。
農業集団化を強引に進め、農民の抵抗が激しくなると、スターリンは1930年に、「共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう」というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、「共産主義へ向かえば向かうほどブルジョアジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない」とした。
第二次世界大戦にあたっては、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』以来の国際主義を放棄し、ロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまずロシア民族の健康のために乾杯する。それは、ロシアの民族が、ソヴィエト同盟(連邦)を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。
また,上記の「ソヴィエト同盟(連邦)」というのは「ソヴィエト連邦・露:Советский Союз」のсoюзが日本語では「連邦」と訳されるのが普通であるが正確には「同盟」という意味であるため「ソヴィエト同盟(連邦)」といった表記をしている。(連邦を示すのはФедерацияである)
ソ連の現実があまりに悲惨であったために、共産主義運動の内部からも反発が生まれた。