共和政ローマ
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共和政ローマの歴史


共和政の開始

紀元前509年、第7代王タルクィニウス・スペルブスを追放し共和制を敷いたローマだが、問題は山積していた。まず、王に代わった執政官が元老院の意向で決められるようになったこと、またその被選挙権が40歳以上に限定されていたことから、若い市民を中心としてタルクィニウスを王位に復する王政復古の企みが起こった。これは失敗して、初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、彼自身の息子を含む陰謀への参加者を処刑した。ラテン同盟諸都市やエトルリア諸都市との同盟は、これらの都市とローマ王との同盟という形であったため、王の追放で当然に同盟は解消され、対立関係となった。追放されたタルクィニウス王とその息子たちは王政復古の計画が失敗したことを知ると、同族のエトルリア諸都市から兵を借りローマを攻めた。市内に住んでいたエトルリア人はローマを去り、国力は低下した。一時期、先王タルクィニウスは市を包囲したが、ローマが敗戦を認めないため、攻め込んでも犠牲の多い割に得るものが少ないと考え去っていった。 その後、ローマはエトルリアから学んだ技術を独自に発展させるようになり、徐々にそれを吸収していった。

前4世紀アルプス山脈の北方からケルト人が南下してきた。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵の首を斬るという習慣があった。ガリア人には重装歩兵によるファランクス戦法は通用せず、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、前390年にローマを襲撃して略奪を働いた。この事態はローマ将軍マルクス・フリウス・カミルスによって打開された。


身分闘争とイタリア半島の統一

相次ぐ戦争の中で、戦争の主体となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、重装歩兵部隊を支えたプレブス(平民)が当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して政治参加を要求するに至った。いわゆる「身分闘争」の開始である。貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利を擁護する護民官を設置し、十二表法で慣習法を明文化した。さらに、前367年のリキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、前287年のホルテンシウス法によって、トリブス民会の決定が、元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。これにより、ローマにおける貴族と平民の法的平等が達成された。一方で、ローマはイタリア半島各地の都市を制圧していった。イタリア半島南部にはアッピア街道が建設され、南部遠征の遂行を助けることになった。この後も、ローマは各地に向かう交通網を整備し、広域に渡る支配を可能にしていった。前272年、南イタリアにあったギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一を成し遂げた。


ポエニ戦争

詳細はポエニ戦争を参照

イタリア半島の統一を果たしたローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、紀元前264年よりカルタゴとの百年以上に渡る戦争へ突入した。これをポエニ戦争という。第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、この地を最初の属州とした。紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルカンネーの戦いで敗れるものの戦況を巻き返し、大スキピオの指揮下で再びカルタゴに勝利する。この際、カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海の征服を果たした。また、カルタゴを味方したマケドニアにも遠征を行い、イリュリア古代ギリシアを影響下に置いた。この第二次ポエニ戦争でカルタゴは多大な打撃を被ったが、ローマ内部では大カトーを中心に対カルタゴ強硬派がカルタゴ殲滅を主張していた。紀元前149年より第三次ポエニ戦争が行われ、紀元前146年にカルタゴは灰燼に帰した。


東方への進出

第二次ポエニ戦争に勝利してカルタゴの脅威が減少すると、イタリア半島外へ勢力を拡大させた。

第一次マケドニア戦争 紀元前215年 - 紀元前205年 フィリッポス5世がハンニバルと同盟し戦う。

シリア戦争 紀元前192年 - 紀元前188年 セレウコス朝シリアに勝利し小アジア諸国と同盟を結ぶ。

第二次マケドニア戦争 紀元前200年 - 紀元前196年 フラミニヌスによりローマ勝利。

第三次マケドニア戦争 紀元前171年 - 紀元前168年 マケドニア王ペルセウスが敗北し滅亡。

第四次マケドニア戦争 紀元前150年 - 紀元前148年 マケドニア、ローマ属州となる。


属州と共和政の変質

イタリア半島の制圧までのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、組織だった徴税制度は設けなかった。しかし、第一次ポエニ戦争によってシチリアサルディニアを得ると、属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki