六四天安門事件
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胡耀邦追悼

翌16日には、同国の民主化に積極的であった胡の死去を受けて、北京政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた小規模な集会を行った。

これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行い、その後民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。また同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。

翌19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった上、翌22日にはデモ隊が「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬首相との面会を求めた声明を出すと、文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを動乱であるとして強硬に対処することで一致した。


「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」

学生を中心とした民主化を求めるデモは、4月22日には西安長沙などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めた頃からである。活動が全国規模に広がっていったことを受け、穏健派の趙紫陽総書記が北朝鮮を公式訪問していた4月25日、?小平の談話を下地にまず中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説が掲載された。北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出した」動乱と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

上海市の週刊誌である『世界経済導報』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は江沢民党委書記が宣伝担当の曾紅慶党委副書記と陳至立市宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となり、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。

中国共産党は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。


デモの拡大

五四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生、市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、?小平や保守派の長老も歩み寄りが見られたが、5月13日から始まったハンガーストライキが『四・二六社説』から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動収束をすることで?、楊尚昆、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も『四・二六社説』の撤回に固執したため絶食の終結は困難となった。

この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安警察による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せて香港や日本アメリカなどに留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。

この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、ウーアルカイシは、5月18日に李鵬首相ら党首脳陣との会談で態度を激しく批判し、その姿が全世界にテレビにより流されたことで全世界から注目を集めることとなった。


ゴルバチョフ訪中ミハイル・ゴルバチョフ書記長(右)

この様な状況下にもかかわらず、5月15日には、「改革派」として世界的に知られていた、ソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ中央委員会書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定どおりに北京を公式訪問した。

中国共産党は、ゴルバチョフと?小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。このために、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり場所を移動したりして行われた。

ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は、「最終決定権が?小平にある」と明かしたが、これも後に「罪状」に数えられることとなった。

外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中華人民共和国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」、「民主主義大使」として歓迎する一幕[1]が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったにもかかわらず、結果的に中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった(なおゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党も、ゴルバチョフ書記長の訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている)。なおゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日北京首都国際空港から帰国した。


戒厳令布告

この頃の中国共産党内部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。趙紫陽(左)

5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による中国共産党政治局常務委員会が行われたが、趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が棄権したため結論が出ず、改めて党長老で事実上の最高権力者である?小平を含めた会議が行われた[2]結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定され、翌20日に布告された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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