中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者の多寡については数百人から数万人の間で複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報がある[8]ように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。
共産主義思想
マルクス主義 ? レーニン主義
スターリン主義 ? トロツキー主義
毛沢東思想 ? ユーロコミュニズム
国際組織
コミンテルン ? コミンフォルム
第四インターナショナル
人物
マルクス ? エンゲルス
レーニン ? トロツキー
スターリン ? 毛沢東
出来事
ロシア革命 ? 大粛清
スターリン批判 ? ハンガリー動乱
中ソ対立 ? 文化大革命
プラハの春 ? 天安門事件
東欧革命 ? ソ連崩壊
表・話・編・歴
事件後の6月23日から開催された四中全会において中国共産党は、この事件を「反革命暴乱」と規定した。また同時に趙紫陽や胡啓立などの民主化活動に理解を示し、戒厳令の布告に反対した人物は失脚することとなった。趙紫陽総書記の後任には上海におけるデモの拡大を抑えきった江沢民政治局委員が抜擢された。
趙紫陽失脚後に開催された八老会議では、失脚した趙紫陽、胡啓立を除く常務委員のうち、李鵬と喬石、さらに万里らが趙紫陽の後継者として名前が挙がったが、李鵬は強硬派のトップとして前面に出ていた悪影響から、喬石と万里は年齢から除外された。保守派の2巨頭である陳雲、李先念が推した江沢民が最終的に選ばれた。
事件後には、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。その様な中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が民主派の助けを受けて香港などを経由して西側諸国へ亡命した。
また、密かに中国共産党首脳部の強硬派による自国民に対する虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。
上記の様に、西側諸国だけでなく東側諸国を含む世界各国ではこの事件は大きな驚きと怒りをもって報道されたものの、中華人民共和国の国内においては、事件後には平常時にも増して報道管制が強化されたため、事件に対する詳細な報道は殆ど行われなくなった[9]。しかも、最終的に事態を掌握した強硬派とその一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証的な報道はこれまで殆ど行われていない[10]。
遅浩田国防部部長は1996年にアメリカを訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言[11]し、世界各国から反発を受けたほか、日本を含む多くの国において、中国共産党の御用ジャーナリストを使って「虐殺は存在しない」、「死者は数人にすぎなかった」、「負傷者は1人もいなかった」などの、自らの行った正式報告さえ翻すような極端に歪曲された内容のプロパガンダ を垂れ流し続けている[12]。
一部の中華人民共和国国内のサイトの検索エンジンでは、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると接続不可能になるといった規制や(Yahoo!やGoogle、MSNなど)、この事件についての記事が存在する「ウィキペディア」に対する接続規制が2008年現在も行われている[13] など、事件から18年経った現在も政府ぐるみでの事件の隠匿が行われている。そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は事実を殆ど知らず(知っているとしても暴徒が軍を襲ったための自衛行為という程度)、海外に出て初めて知らされるという傾向にある。
結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望し、決別した活動家は多く、石平をはじめとした活動家が海外で活動を続けることになる。
全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主的な行為をする中国共産党に抗議デモが起こった。
1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っており、たとえば学校では、小学校なども含んで校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。