この様な状況下にもかかわらず、5月15日には、「改革派」として世界的に知られていた、ソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ中央委員会書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定どおりに北京を公式訪問した。
中国共産党は、ゴルバチョフと?小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。このために、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり場所を移動したりして行われた。
ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は、「最終決定権が?小平にある」と明かしたが、これも後に「罪状」に数えられることとなった。
外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中華人民共和国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」、「民主主義の大使」として歓迎する一幕[1]が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったにもかかわらず、結果的に中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった(なおゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党も、ゴルバチョフ書記長の訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている)。なおゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に北京首都国際空港から帰国した。
この頃の中国共産党内部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。趙紫陽(左)
5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による中国共産党政治局常務委員会が行われたが、趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が棄権したため結論が出ず、改めて党長老で事実上の最高権力者である?小平を含めた会議が行われた[2]結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定され、翌20日に布告された。ハンストを続ける学生を見舞う中で涙を見せ「党の分裂を示唆した」趙紫陽は、先の政治局常務員拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、事実上党の全役職を解任され失脚し自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消すことになる。
これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化するばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。
こうした中、カナダを訪問中の万里全人代委員長が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、当の万里は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。万里は2日後に党中央の決定に対し支持を表明する。
これにより武力回避は不可避となったため、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から押し寄せる強硬派らが多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨークの「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。またこの頃香港や中華民国、アメリカなどの国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。
戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本や西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカのCNNは依然として生中継を続けていた。これに業を煮やした中国共産党の上層部は、生中継を行っていた最中に現場に係官を派遣して放送を中止するよう命令した。
しかしこの際にテレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りはそのまま生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信された。なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオ収録による中継と、電話や携帯電話を使用した音声による生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が香港や中華民国などの国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクスを使って北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたと言われている。
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装を行った兵士が配置に就いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された[3]。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、中国人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した[4]他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[5]。
この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った学生達は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[6](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。なお、学生運動の主立ったリーダー達は武力突入前後にからくも現場から撤収し、支援者らの手引を受けて海外へ亡命した。