八王子市は東京都の島嶼部を除く地域の南西部、都心から約40kmに位置している。
市域全体を概観すると、山地・丘陵を三方の周縁とし、東へ流れる浅川を中心に、八王子盆地と呼ばれる東にひらけた半盆地状の複合扇状地をなしている。かつてその扇状地は桑畑として利用されたが、現在では住宅地や工業用地として転用されほとんど見ることができない。西部の山地に源を発する浅川は市の中央部付近で南浅川と合流し市の中心域を流れ、川口川と合流、日野台地のせり出しを受けて東南に下り、山田川、湯殿川と合流して日野市へと向かう。その他の主要河川である北部の谷地川、南東部の大栗川はそれぞれ市の外で多摩川に合流する。中心部の標高は海抜100m前後である(市内最高所は醍醐丸=上恩方町、標高862.7m、最低所は大栗川=大塚、標高63.0m)[5]。
中世から近世・近代に至るまで東西を走る甲州街道と、川越・桐生・日光(日光脇往還)など関東北西部、小田原・鎌倉・横浜(浜街道)など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であり、江戸時代には、甲州街道の宿場町として栄えた。
現在、国道20号(甲州街道)と横浜から川越方面へと向かう国道16号(東京環状)、そして青梅を経て甲府へ向かう国道411号(滝山街道、青梅街道)の交点である。又、八王子ジャンクションにより中央自動車道と首都圏中央連絡自動車道との交点でもある。
鉄道輸送においてはJR中央本線と横浜線・八高線の交点として、またJR貨物八王子総合鉄道部や京王電鉄の始発駅2駅がある。
市の位置(世界測地系)[5]
東端:東経139度25分48秒(鹿島)
西端:東経139度09分42秒(上恩方町)
南端:北緯 35度35分52秒(南大沢三丁目)
北端:北緯 35度43分07秒(高月町)
高尾山から見た八王子市街八王子市中心部北西方向風景八王子市中心部南西方向風景
関東山地の一部である高尾山や陣馬山等標高500mから900m弱の山々を西端として、小河川を挟んで第四紀層の上総層群で形成されている各丘陵が舌出している。
北部では多摩川及びその支流の秋川と川口川の間に加住丘陵があり、谷地川により加住北丘陵および加住南丘陵とに分けられている。両加住丘陵の東端は標高を下げながら南東部の日野台地へと続く。加えて川口川と浅川の上流部である北浅川との間に川口丘陵、北浅川と南浅川との間には恩方丘陵・元八王子丘陵・舟田丘陵が舌出し、南浅川以南の小比企丘陵の南部は多摩丘陵へと連なる。標高200mほどの各丘陵の西部は関東山地の東縁に連なる。市域は関東山地と関東平野とを隔てる八王子構造線に跨っており、その名称の由来ともなっている。
森林面積は8,582haで、市域全体の約46%を占める[6]。
内陸部の小盆地であるため、市の中心部における冬の最低気温は東京都心部に比して5℃ほど低く(最高気温はほぼ同じ)、夏の最高気温は同じく2-3℃ほど高いこともある。1月の平均最低気温は北関東の前橋市よりも低く、冷え込みが厳しい。
市内最高気温は39.9℃(1997年7月5日)。最低気温は-12.0℃(1960年1月25日)[7]。
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近代以降の行政区域の変遷については後述し、各時代の詳細については八王子市の歴史を参照のこと。
北条氏照が城を築いた深沢山には、牛頭天王の八人の王子神である「八王子権現」が祀られていたため八王子城と名づけられた。この城名が市名の由来である[8]。八王子城が豊臣秀吉の小田原攻めにより落城すると、この地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた。交通の要衝であるため、江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての役割も担った。徳川家康が武田家の遺臣を召抱えて組織した八王子千人同心の根拠地となったのはそのためである。そして、江戸時代には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発および甲州街道の整備にあたった。その結果八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地区の物資の集散地として栄えた。
開国ののち、明治維新期以降は織物産業が繁栄した。