このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である。
現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれる。これは心身一致の禅定において正しい智慧を完成することである。この「正定」(samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)によってはじめて、「正見」が得られるのである。
このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七支であるから、この八正道は、次のような形で人間の実践道となる。
関連項目
中道
カテゴリ: 原始仏教 | 名数
更新日時:2008年7月22日(火)00:47
取得日時:2008/08/16 08:20