八戸市は人口24万人を有し、青森県南部地方の中心都市である。経済圏である八戸都市圏は約33万人の人口を擁する。また商圏は隣接する岩手県北東部に及び商圏人口は東北地方有数の約60万人である。
2002年7月には東北縦貫自動車道八戸線が全線開通し、同年12月には東北新幹線が八戸駅まで延伸開業に伴い、東京駅まで最短2時間56分で結ばれている。さらに、八戸港はFAZ(輸入促進地域)に指定されており、東南アジア、中国・韓国、北米、横浜内航フィーダー航路の4つのコンテナ航路を持つなど、国際貿易拠点として期待が高まり、重要な交通拠点として整備が進んでいる。[1]
八戸市の伝統芸能のえんぶり(?)、八戸三社大祭、騎馬打毬は国の重要無形民俗文化財に指定されている。また、伝統工芸品には「八幡馬」「南部姫毬」がある。八戸市の郷土料理はせんべい汁や南部せんべいが有名である。
『氷都八戸』と言わる八戸市は、国民体育大会冬季大会のスピードスケートの競技会場に選ばれている。このため、市民の中でもスケートやアイスホッケーが盛んに行なわれ、実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含めると40チームが結成されている。
市域は青森県の南東部にあたり、北緯40度30分、東経141度30分に位置する。 東は太平洋に面し、北はおいらせ町、西は五戸町・南部町、南は階上町、岩手県軽米町に接する。市域の面積は305.17平方キロメートルで青森県の約3.4%を占め、県内の市町村で11番目の広さである。
八戸市の地形は、なだらかな台地に囲まれた平野が太平洋に向かって広がり、その平野を三分する形で馬淵川、新井田川の2本の川があり、市の北部には五戸川、奥入瀬川が流れている。また、八戸市の南側に位置する南郷区には新田川の上流にダム湖の青葉湖がある。
山:
河川: 馬淵川、五戸川、奥入瀬川、新井田川
湖沼:青葉湖
八戸の地名の由来は、平安末期以降の行政区画に由来している。 八戸の「戸」は、古代末期から中世にかけて「糠部郡」と呼ばれていた地域である。岩手県北から青森県南にかけて「戸」のつく地名が四以外の一から九の数字まであり、八戸は「糠部」の中の8番目の「戸」が地名として呼ばれたものが由来と考えられている。 この「戸」は、古代律令に基づくものと考えられており、[馬産地]として知られていたこの地域の牧場に関連させる考え方や、蝦夷支配のために北進する朝廷側の前進基地とするなど「戸」については諸説ある。[2]
縄文時代の遺跡として是川遺跡や風張遺跡がある。風張遺跡からは縄文後期の米粒が出土している。また、是川遺跡からは数々の工芸品が出土している。その後、平安時代に南部氏が治めるようになるまで蝦夷の土地であり、律令制の及ばない地であった。
建久2年(1191年)、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされているが、南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。建武元年(1334年)、南部氏分家の南部師行が根城を築き、根城南部氏の祖となった。根城南部氏は寛永4年(1627年)、本家盛岡南部氏の命により遠野に居城を移した。寛文4年(1664年)、南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため南部藩は御家断絶となる。幕府は南部藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸藩を南部直房に与え八戸城が築かれた。これが八戸藩の始まりである。なお、八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、久慈市あたりまでが八戸藩であった。
八戸城は現在の三八城公園にあった。城下町には三日町、十三日町など市の立つ日を名前とした街が並んでおり、現在も市の中心地となっている。
港町である八戸市は、港湾と共に発展してきた。八戸藩誕生のころ、八戸の港は鮫浦と呼ばれる漁港であった。また、新井田川河口は湊川口と呼ばれ、こちらも漁港および商港として重要な拠点であった。大正4年(1915年)、鮫浦港修築工事が開始され、昭和4年(1929年)に商港に指定されると鮫浦と湊川口を合わせて八戸港と呼ぶようになった。また、大正13年(1924年)の八戸大火により、中心街の町並みが大きく変貌を遂げた。
また、八戸市には馬淵川と新井田川という二本の河川が流れているが、特に馬淵川は蛇行が激しく流量も多いため、水害の多い河川であった。特に河口部分で馬淵川が大きく曲がって新井田川と合流するような形で太平洋に注ぎ込んでいた。昭和12年(1937年)、馬淵川の改修工事(河口付近の直線化)が開始されたが難航し、戦争のために中断された。昭和24年(1949年)に工事が軌道に乗り、昭和36年(1961年)に完成した。これにより水害がなくなり、臨海地域を工業地帯として利用可能となった。