光武帝
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 生涯


出生

劉秀は景帝の子で長沙王となった劉発の末裔である。幼少の頃は非常に慎重且つ物静かな性格とされていた。仕官するなら執金吾(官服が華美で、当時憧れる者が多かった)、妻を娶らば陰麗華(地元南陽で美人と評判の豪族の娘、後に皇后となる)という程度の希望を公言する、平凡な宗族の一人であった。景帝─長沙定王劉発―舂陵節侯劉買┬舂陵戴侯劉熊渠┬舂陵考侯劉仁┬舂陵康侯劉敞―劉祉               │       │      ├劉慶―――――劉順               │       │      └劉憲―――――劉嘉               │       └蒼梧太守劉利┬劉張―――――劉玄(聖公,更始帝)               │              │   └劉騫               │              └劉□――――┬劉顕―劉信               │                  └劉賜               └鬱林太守劉外――鉅鹿都尉劉回┬南頓県令劉欽┬劉?(伯升)                             └蕭県令劉良 ├劉仲                                   └劉秀(文叔,光武帝)


赤眉軍・緑林軍

王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想とし現実を無視した政策を実施したため民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴・西羌・高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。

天鳳1年(14年)、山東の琅邪郡で呂母なる老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集め、反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に死去するが、一旦集まった軍勢は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、天鳳5年(18年)、同郷の樊宗が兵を挙げると合流し一大勢力となった。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。王莽の朝廷軍である太師軍・更始軍は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」[1]と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。

地皇3年(22年)冬、劉秀の兄の劉?(りゅうえん)が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。

挙兵時には劉秀は貧しく馬を買うことができず牛に乗っており、緑林軍に合流してから朝廷軍より捕獲した馬に乗るようになったという逸話がある。

まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉?の舂陵軍と連合した。後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉?が?陽で官軍を打ち破った。連合軍が南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉?擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。

更始1年(23年)夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、朝廷軍は63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。王莽軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。王莽軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により王莽軍に大勝した(昆陽の戦い)。

昆陽の勝利に前後して劉?も宛城を落城させている。これにより?秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。劉玄即位に反対していた劉?の部下が、更始帝により官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉?は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉?をも殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉?の弔問に訪問しても事件については一切語らず、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。

昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始帝軍に合流し、更始帝軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽長安を陥落させ、更始帝は洛陽、長安へ遷都する。洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近達に昆陽での戦功と劉?の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いる可し」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。


河北転戦

更始1年(23年)冬、劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎成帝の落胤であると称し挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は?禹王覇馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め?禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。

その後は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠萬脩、和正郡の太守??らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植耿純が陣営に加わる。これにより任光李忠萬脩??劉植耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。

劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王の劉楊(「漢書」記述、「後漢書」では劉揚と作る)への工作を開始。劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(後の郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。

こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢蓋延王梁(以上漁陽)、景丹寇恂耿?(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。

劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。


即位

建武1年(25年)、河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki