元代
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税制

(政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は1260年のクビライ即位の年の例に拠っている。)

元の税制は、かつての金の領土(漢地)と、南宋の領土(江南)とで異なっていた。

漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。

税糧は、各戸の壮丁(労働に耐えうる男性)ごとに粟(穀物)1石、あるいは土地1畝ごとには3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、面積に対してかかる一般的な田税とは異なるし、田を持っていなくても成年男子であればすべての者に課せられるという点で、中国の税制の歴史において後にも先にも見られなかったものである。

もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で絹糸を22両4銭(重量)を収め、包銀は6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられたが、結果として中国史上でははじめて、税の銀納を義務付けた税となり、銀と、後に銀と換算される紙幣として流通される交鈔の通貨としての地位を高めた。

一方、江南の方では、南宋から引き継いだ両税法をそのまま用いていた。両税法では、各戸が木綿などの物産、に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。

しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入にほとんどを依存していた。

元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税設定の特異な点は、都市や港湾を商品が通過するときにかけられていた関税を撤廃し、最終売却地で、売却時に商税を支払えばよいようにした点にある。こうして物流にともなう関税の煩雑な手続きが避けられるようになり、しかも実質税額が低く抑えられたので、元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなった。

しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。


金融政策と塩専売制度

中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔(こうしょう、あるいは単に鈔とも)と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。

交鈔はとの兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。

これに対して1287年に中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、消費財である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。

さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。


歳出と国際商業

こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。

元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギス・ハーンの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていたハーンは、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。ハーンの側から見れば、ハーンたる皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。

このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、14世紀に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は1356年に廃止された。


文化


宗教

元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、チンギス・ハーンの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた。

中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、教主丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギス・ハーンの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにハーンのために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になった。金朝の首都であった中都(のちの大都が建設される)を拠点として、教団は金朝滅亡後に失職した官吏を保護し、さらに全真教系列の各地の道観は漢人官僚組織の育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下の漢地領土において行政組織の運営に携わった。しかし、この急激な教団の拡大は浄土教系や禅宗などの華北の中国仏教教団との深刻な対立を生み出した。特に、全真教の道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存の仏教寺院を不法に接収し道観に作り替えたり、寺院付属の荘園を没収して私領するなどの事件が多発したため、仏教諸派はモンゴル宮廷にこの事態を直訴する事態となった。モンケの治世にカラコルムと中都で都合3回行われたといういわゆる「道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題を詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席のもと開催された時は、ルイ9世から派遣されたウィリアム・ルブルックも出席しており、帝国内外のキリスト教徒イスラム教徒の知識人たちも参加していた)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen