儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。
儒教の考えには本来、男尊女卑と言う考えは存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を持って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在ではみなされており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。
仁
人を思いやること。孔子以前には、「おもねること」という意味では使われていた。また、白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者のたのもしさをいう語」。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。
義
恩に報いる
礼
仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。
智
学問に励む
信
親睦を深める
儒(じゅ)の起源については胡適が論文「説儒」(1924年)で「殷の遺民で礼を教える士」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムを儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。
孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
『史記』孔子世家によると、孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいたとされる。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。そのなかで孟軻(孟子)は性善説を唱え, 孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。また『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
秦の始皇帝が六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火をへながらも、漢に伝えられた。
漢に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。