1607年、現在の釜山広域市東区佐川洞付近に新設された倭館で、約1万坪の面積があった。古倭館ともいう。内部には宴享庁(使者の応接所)を中心に館主家、客館、東向寺、日本側の番所、酒屋、その他日本家屋が対馬藩によって建築された。1647年には対馬藩が任命した館主が常駐するようになったが、交易の発展にともない豆毛浦倭館は手狭になり、交通も不便であったので、朝鮮側に再三移転要求を行った。1673年移転が認められ、1678年に草梁倭館へ引越しが行われた。
1678年、現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、10万坪もの面積があった。同時代の長崎の出島は約4千坪であったから、その25倍に相当する。新倭館とも呼ばれた。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁(交易場)、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。
倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時、朝鮮は医学先進国であり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来るものが藩医、町医を問わず多かった。また1727年に雨森芳洲が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。さらに対馬から交易船が到着すれば、倭館滞在者が急増したことは言うまでもない。 倭館の安永年の普請に関わったのは、早田万右衛門などである。
中世の倭館交易では日本側は銅、硫黄、金を輸出したが、南方物産である赤色染料の蘇木、胡椒などのスパイス類も琉球経由などで朝鮮に転売した。朝鮮側輸出品は木綿や綿が中心であった。中世には木綿の本格的栽培はまだ日本では始まっておらず、江戸時代になってようやく木綿の輸入を必要としなくなった。また正式の通交使節との公貿易では、大蔵経など朝鮮の書籍も日本に輸出された。
近世の倭館交易では日本側は銀、硫黄、金、その他南方物産を朝鮮側に輸出した。朝鮮側は朝鮮人参、トラ皮などの朝鮮産品も輸出したが、江戸時代前期の最大の輸出品は生糸、絹織物などの中国産品であった。当時、日本の絹は品質が劣り、高級衣料として中国絹が好まれたためである。朝鮮はこれら中国産品を、朝貢貿易や国境貿易で入手することができたが、日本は明への入港を拒絶されていたため中国密貿易船の来航を待つしかなかった。対馬藩はこの中国産品の中継貿易によって巨額の利益を上げ、藩の禄高は実質10万石以上とされた。
しかし18世紀になって日本でも絹生産の技術が向上すると、中国産品の輸入が減少し、釜山交易に打撃を与えた。また朝鮮側が厳禁していた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、日本国内でも朝鮮人参栽培に成功した。一方、日本国内の銀産出量が激減したため、銀輸出が禁止され、銅や金が主要輸出品目に変わった。このため、18世紀以降、倭館交易は衰退するが、断絶することはなかった。
釜山倭館に来航した対馬藩家老は1867年、明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、朝鮮側は日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。1871年日本で廃藩置県が実施されると、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を外務省が接収、1872年外務丞(外務大臣)・花房義質が釜山に来航し、草梁倭館を接収して日本公館と改称した。これに対して朝鮮側は強硬に退去を要求し、日朝間の外交問題に発展、日本では征韓論が台頭した。日本は1876年に江華島事件を起こし、砲艦外交によって朝鮮に開国を迫り、翌年日朝修好条規を締結して日本外交使節のソウル駐在を認めさせた。ここにおいて釜山の倭館は200年の歴史を閉じることになった。
大韓民国慶尚北道漆谷(チルゴク)郡に倭館(ウェグァン)邑が現存し、京釜線の駅名と京釜高速道路のインターチェンジ名、漆谷郡庁所在地にもなっているが、これは文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である。 なお、漆谷邑は1981年に大邱市が直轄市に昇格した時に編入されて現存しない。
関連項目
海東諸国紀
参考文献
村井章介『中世倭人伝』(岩波新書新赤版274)岩波書店、1993年。
田代和生『倭館─鎖国時代の日本人町』(文春新書281)文藝春秋、2002年。
外部リンク
⇒草梁倭館時代 (朝鮮語)
⇒忘れられた釜山の歴史 (朝鮮語)
カテゴリ: 李氏朝鮮 | 江戸時代の外交 | 日本の貿易の歴史 | 日本の国際関係史 | 日本人街
更新日時:2008年8月14日(木)07:11
取得日時:2008/09/01 14:37