遠縁に当たる吉田茂首相とは早くから親交があり、その勧めで総選挙に出馬を予定していたが[要出典]、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格。自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚し、逮捕状を出されるも、犬養健法相による検察指揮権の発動により逮捕を免れた。その後、起訴されるも国連恩赦で免訴となる。
保守合同による自由民主党結成では、自民党参加を拒否した吉田に、橋本登美三郎とともに従った。鳩山引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、三木武夫政務調査会長と共に岸政権を支えた。
内閣総理大臣就任佐藤栄作とリチャード・ニクソン
1964年(昭和39年)7月、佐藤は池田勇人の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。現金が飛び交い「サントリー。」「オールドパー。」などという隠語が流行するほど激しい抗争であったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は、「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田首相の病気退陣に伴い、実力者会談を経て自民党の後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した。
総裁公選のすぐあとに当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも実兄・岸の総理総裁の就任の仕方と同じである。その天命ぶりを彷彿(ほうふつ)とさせるドラマを両方とも間近で見ることになった田中角栄が、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語るほどであった。
首相在任中は、ILO第八十七号条約批准、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決等を行なった。また、1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を表明し、日本の平和国家としてのあり方や平和外交に大きな礎石を築いた。
世は、佐藤政権の下、確実に不況を克服し、高度経済成長に邁進(まいしん)し続け、昭和元禄を謳歌(おうか)していた。佐藤政権は、数々のスキャンダルに見舞われつつも、それを迅速に処理し、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥(おちい)ることなく稀代の長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。
この背景には、自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去っていったという事情が挙げられる。自民党内で佐藤に対峙する党人派の代表格は、大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)であったが、こういう実力者が、佐藤の首相就任後、相次いで他界した。特に世論から期待の声が高かった河野の死は、佐藤の長期政権に拍車をかけた。
このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮沢喜一、竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ、育て、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術で政権の求心力を維持し続けた。その効果からか、「黒い霧事件」のような自民党の一大スキャンダル直後の第31回衆議院議員総選挙でも持ち直して安定多数を維持し続けている。
1970年(昭和45年)の自民党総裁四選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった自民党副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に四選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤四選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつける」事を大義名分に、現在まで唯一・最多の自民党総裁四選を果たした。
しかし、四選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早速(はやばや)と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化し、沖縄密約事件(1972年3月27日)やニクソン・ショック(1971年7月14日)が重なったこともあって、佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が、派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、総裁公選も田中が宿敵福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年(昭和47年)7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として7年8ヶ月に渡る長期政権を終えた。
1974年(昭和49年)晩秋、田中首相の日米にまたがる金脈問題が騒がれ始める中、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて授賞した。