4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に順風満帆であったわけではない。明治10年代、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う側面もあった)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
伊藤の女好きは当時から非常に有名であり、女性と遊んでは捨て去ることから、「箒」というあだ名がついた。また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱でうなされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明は子孫の一人という。
民族衣装韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤
韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人
扶桑社刊の『新しい歴史教科書』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として韓国人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。
当初は「利助(りすけ)」だったようだが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。
栄典・爵位
1877年11月2日:勲一等旭日大綬章
1884年7月7日:伯爵授爵
1885年5月25日:スウェーデン王国 ヴァーサ勲章一等
1889年2月11日:勲一等旭日桐花大綬章
1895年8月5日:大勲位菊花大綬章 侯爵陞爵
1896年3月19日:ロシア帝国 アレクサンドル・ネフスキー勲章一等
1897年10月4日:ベルギー王国 レオポルト勲章一等
1898年4月29日:フランス共和国 レジョン・ド・ヌールグランクロワ章
1906年4月1日:大勲位菊花章頸飾
1907年9月21日:公爵陞爵
家族・親族
妻・梅子(芸者時代はお梅と名乗る)
長男・文吉(養子。木田幾三郎・長男。文吉の妻は元首相桂太郎の娘・寿満子)
二女・生子(福岡県。末松謙澄子爵に嫁する)
孫・博精(妻は元首相高橋是清の孫娘)
曾孫・文子(出雲国造家の千家達彦妻)
林家は越智氏の流れを汲むと称している。江戸時代、林家は代々農業を営んでいた[2]。博文の父・十蔵が伊藤家の養子に入ったことで伊藤姓を称するようになった。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ[3]。家紋は上がり藤。助左衛門━十蔵━博文┳博邦━┳博精━┳博雅━┳智明 ┣生子 ┣博春 ┣邦子 ┗八重子 ┣朝子 ┣博通 ┣雪子 ┣文吉 ┣琴子 ┣文子 ┗眞一 ┣博約 ┣典子 ┣愛子 ┗久子 ┣博忠 ┣博臣 ┣博則 ┣博経 ┣十四子 ┣博孝 ┗博英
邸宅開東閣
山口県萩市椿東
東京都品川区大井
東京都港区高輪四丁目(開東閣)
神奈川県大磯町西小磯(滄浪閣)
神奈川県横浜市金沢区野島町 野島公園
参考文献
早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 211-215頁
別冊歴史読本57 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 226-227頁