自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして一般に受け止めらるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。例えば、1880年(明治13年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した「国会を開設するの允可を上願する書」が著名である。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて政府に対する批判を繰り返した。
戦後、1946年(昭和21年)1月1日の昭和天皇の人間宣言で、御誓文の条文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相がGHQに主導されて作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、急遽GHQの許可を得て加えられることになった。天皇は後に、
「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」
? 1977年8月23日記者会見
と語っている。
1946年(昭和21年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して、
「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」
と答弁した。このように敗戦後の初期には支配層は五箇条の御誓文は民主主義の原理であると主張した [2]。
内容ウィキソースに ⇒御誓文の原文があります。御誓文(太政官日誌掲載、経論は経綸の誤記)
正式な表題は、 ⇒法令全書によると、「御誓文」である。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば1875年の立憲政体の詔書)。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である。
御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
(由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
(福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』1919年に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)
前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた[3]。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。
後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本竜馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
(由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
(福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし
冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。
後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語を専ら経済の意味で用いていた。したがって、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経済を振興する」という意味であったと思われる。もっとも、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解されることが多い。
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
(由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
(福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。