朱全忠が皇帝となると、これに従うことを良しとしない各地の勢力は自らも皇帝を名乗った。一方、後梁と対立することを望まない華南の諸国の中には、後梁に対して臣下としての礼を取る国もあった。
朱全忠の宿敵である李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は後梁に対して苛烈な攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪われる。更に朱全忠は後継者を選ぶに際して失敗し、内紛を招いた。それを横目で見ながら李存勗は913年、燕王を名乗っていた劉仁恭を滅ぼしてその故地を併合。自信を付けた李存勗は923年には唐皇帝を名乗り(荘宗)、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。
李克用たちの李姓は、功績により唐朝廷から国姓を授けられたものである。これを所以として荘宗は自らを唐の後継者と称して、後唐を建てたのである。後梁を滅ぼした後、更に岐王を名乗っていた李茂貞や四川を支配していた前蜀を相次いで滅ぼし、領土を拡大した。しかし荘宗は内向きには唐の遺光を惜しむかのように洛陽へ遷都し、朱全忠が廃止した軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させ、武将たちの不満を買った。この不満が926年の武将たちによる李嗣源(後の明宗)の擁立となって現れる。李嗣源の軍が洛陽に迫ると、禁軍(近衛兵)たちにより荘宗は殺された。
即位した明宗は宦官の排除・節約などを図り、全国の土地の検地を行って不公平の是正に努め、新たな財務機関として「三司使」を創設した。また自分のような有力軍人による帝位の奪取を繰り返させないように、直属の軍である侍衛親軍(じえいしんぐん)を創設し、禁軍の強化を図った。この三司使は、後の宋にも受け継がれている。明宗は、五代の中では後周の世宗に次ぐ名君と称えられる。
しかし明宗は、在位わずか7年で病死する(933年)。三男の李従厚がその後を継ぐが、すぐに義子(養子)の李従珂によって簒奪された。更に李従珂は権力の安定を狙って明宗の女婿であり、実力者である石敬?を排除しようとする。石敬?はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬?は北の契丹に対して援助を求め、その見返りとして燕雲十六州の割譲を約束した。これに応えて契丹の太宗・耶律徳光は大軍を南下させて洛陽を占領し、後唐を滅亡させた。
936年、皇帝に即位して後晋を建てた石敬?(高祖)は遼に対して臣従し、後晋はほとんど遼の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南の呉に寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。
その鎮圧に追われて高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、この即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。946年、契丹(翌年に国号を遼とした)の太宗は再び親征の大軍を南下させ、後晋を滅ぼした。
遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗した。また遼の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。
それを傍観していた石敬?の元側近の劉知遠は、自らの任地である太原で947年に皇帝に即位して後漢を建て、軍を南下させて同年に開封を占領した。
しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近たちは有力者の排除を図り、次々と軍人たちを誅殺していった。反乱の鎮圧に出ていてこれを免れた枢密使の郭威は自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ、開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近たちを一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこに当たる劉贇(りゅうひん、贇は文武の下に貝)を擁立しようとしたが、考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位。後周を建てた(太祖)。それから間もなく、劉贇の父・劉崇は晋陽の地で自立し、北漢を建国した。
ここで時間を戻して、北漢以外の十国の興亡を説明する。
十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者・楊行密は群盗から身を起こして、揚州一帯を制圧、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子・徐知誥によって簒奪される(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李?と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」とした。後世の歴史家よりは南唐と呼ばれる。
同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者・銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。
呉越の南の福建では、節度使・王審知がこの地を制圧して?を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。
西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者・馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉氏はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。
四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者・王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将・孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。
中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。
即位した太祖・郭威は内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。
この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが、954年に即位した柴栄(世宗)である。