日田彦山線の二又トンネルは彦山〜筑前岩屋間にあったトンネルで、釈迦岳の丸山をくりぬいて作られたもので全長約100mであった。
当時の日田彦山線は全線開通しておらず、小倉方面から添田駅までは「添田線」、添田駅から彦山駅までは「田川線」の名称で、また夜明駅から宝珠山駅までは「彦山線」としてそれぞれ開通していたが、このトンネルを含む彦山〜宝珠山間だけが未開通のままであった。これは、彦山〜筑前岩屋間にこの二又トンネルの他、吉木トンネル(全長59m)、釈迦岳トンネル(全長4380m)の計3つのトンネルが作られる計画で、二又トンネルと吉木トンネルは完成していたものの、釈迦岳トンネルが戦争激化によりその工事を中止していたことが原因であった。
沿線付近には多くの軍事施設があったが、そのうち陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所(現在の北九州市小倉北区にある山田緑地)にあった火薬倉庫の一棟が1944年6月16日の空襲により焼失した。このため、西部軍司令部の指令により新たな倉庫を探していたところ、当トンネルと吉木トンネルが空襲の被害から安全と思われ、適切な地下火薬庫であるとされた。
これにより1944年7月から1945年2月に亘って搬入が行われた。彦山駅まで列車で運ばれてきた火薬類はトロッコによってトンネルに搬入され、銃後を守る婦女子たちが主にこの作業に当たった。
1945年8月15日に日本が無条件全面降伏し戦争は終結した。連合国福岡地区占領軍は添田警察署と責任者で山田填薬所長だった陸軍少佐に対して火薬類の引き渡しを指示したため、陸軍少佐は8月30日までに在庫確認したが、それによると二又トンネルには532,185Kgの火薬及び爆弾の信管185kgが保管されていたという。また地元住民4名が軍属として火薬管理を行っていた。
11月8日、火薬類の品目、数量を記載した「兵器現況表」が添田警察署において警察署長立ち会いのもとで陸軍少佐から占領軍の中尉に手渡され、事実上これをもって火薬類の管理は旧日本陸軍から占領軍に引き渡された。この時陸軍少佐は現地での確認を申し出たが、占領軍は引き渡し以前からこの火薬の隠匿情報を入手していたため、現地にて確認済みとして現地立ち会いは省略された。
それから4日後(事故当日)、占領軍のH・エルトン・ユーイング少尉が下士官2〜3名を連れて添田警察署へ向かい、トンネルにある火薬を焼却処分するから警察官3人と作業人夫10人を差し出すように命令した。添田警察署からは警部補、巡査部長、巡査2人の計4人が同行した。
彼の話では火薬を焼却しても危険性がないとして、まず先に吉木トンネルに到着、まず試験的に爆薬に点火し、爆発しないことを確認した上で警察官たちに焼却処分しても危険性のないことを説明して、その旨を警察官たちが付近住民に伝えた上で、保管していた火薬を長さ20m、幅1mほど散布してこれを導火線とし、その末端に粉末1塊を置いた後、点火前に付近住民を避難させてから午後1時、下士官が点火した。その後しばらく様子を見守っていたが爆発の可能性はないものとして1時30分ごろ吉木トンネルを離れ、午後2時ごろ二又トンネルに到着した。
点火時刻を午後3時と決めた占領軍一行は吉木トンネルと同様に、トンネルの北側入口(彦山駅側)から約10m程離れたところから導火線を作り、全員をトンネルから100m北方へ避難させ、午後3時ごろに下士官が導火線に点火した。様子を見守っていた占領軍兵士一行は爆発の可能性はないとして、3時30分ごろに一行は巡査部長に後を託してジープで基地へ引き揚げた。巡査部長はトンネル付近に住民が近寄らないように見張りを立たさせていたが、点火から約2時間後、悲劇は起こった。
占領軍兵士一行が引き揚げてから約1時間後の午後4時30分ごろ、火薬を燃やす炎は火柱のようになってトンネルから噴出し、川の対岸にあった民家に延焼した。火は次々と燃え広がり多くの住民が消火活動にあたったが、炎の勢いはおさまるどころか激しさを増し、ついに午後5時20分(公式記録、地元では午後5時15分としている)、火薬が大爆発を起こして山全体が吹き飛んでしまい、彼らは落ちてきた土砂の下に埋もれてしまった。このときの爆発音は遠く福岡や別府まで聞こえたというが、現地の生存者にはその音が人間の聴覚の限界を超えるほどすさまじいものであったため聞こえていなかったらしい。
付近にあった民家は住民ごと吹き飛ばされ、皮肉なことに火薬の搬入作業にあたった婦女子たちの多くや、爆発の危険性はないと住民に説明しトンネルの見張りを行っていた巡査部長も犠牲になってしまったほか、どんぐり採集をしていた落合小学校の児童29名まで犠牲になってしまった。トンネルを爆心地として被害の範囲は2Km内外に及び、飛んできた炎や空中に舞い上げられ落ちて来た土砂、岩石、倒壊物などの落下により多くの人々が死傷、多くの民家と田畑が延焼や埋没、全壊し、前述のように甚大な人的被害を出すに至った。爆発により被害を受けた家屋は135戸にも及んだ。
また午後5時15分には彦山行き下り409列車が到着するはずだったが、事故当日はたまたま延着したため、列車は爆発に遭うことはなかった。彦山駅の駅員は列車が近づいてきたことを察するとすぐに列車を停めに走り、駅に入る前に乗客を下車させたため、乗客は難を逃れた。しかし、この列車は折り返し午後5時27分発の上り418列車として運行される予定だったために、この上り列車に乗るはずだった乗客が駅前広場で炎を見ていて爆発に遭ってしまい、広場だけでもその乗客たちを含め十数人が死亡した。また、彦山駅の駅舎や付近の建物も被害を受け、駅構内のレールもアメのように曲がってしまったという。事故後、鉄道復旧まで列車は全て1つ手前の豊前桝田駅にて折り返し運転をするようになり、救助部隊の移動や救援物資を運搬する列車のみ彦山駅まで運行された。
その救助活動も難航した。当初遺体や負傷者を小学校へ搬送しようとしたものの、校舎はガラスの破片が散乱しており足の踏み場もなかったため、道の傍らにむしろを敷き、そこに遺体や負傷者を集めたという。また重傷者も消毒薬や包帯などでは到底処置出来ない者も多く、終戦直後の物資不足もあってカンフルもすぐ無くなってしまった。その後、たまたま事故に遭わなかった地元住民がトラックで病院へ搬送したり、占領軍が司令部の了解のもとで別の病院へ収容させたりしたが、病院で息絶える者も数多くいたという。田川、直方、飯塚管内の警防団や福岡県警察本部の救援隊も応援に駆けつけ、数日間に亘って救助活動が行われた。爆発で舞い上がり犠牲者を襲いつつ降り積もった土砂の量は数mもの高さになったといわれているほか、翌日の13日には雨が降り、増水した河川には白蝋化した死体が浮かび上がっていたという。
二又トンネルに搬入された火薬は主に「三号帯状火薬」と呼ばれる無煙火薬であったという。このトンネル内には北側入口から6m、南口から1.5m、トンネルの壁から0.5mずつの通路を開けさせ、上部は天井から1.8mの空間残してぎっしりと格納された。
このような大爆発になったのは、このように隙間なく格納され、その爆弾格納量がトンネル全容積の70〜75%と高かったため、閉鎖された空間とあいまって爆発したといわれている。最初に点火された吉木トンネルはその格納率が20〜25%と少なく空間に余裕があったが、それでも燃え尽きるまでに40数日間を要したという。
また火薬搬入時、陸軍が地元に爆発の危険性がないことを説明していたことに加え、前述のとおり爆発の危険性は絶対にないと警察官たちが地元に伝達していたため、この爆発が起こるまで人々はトンネルが爆発するとは思っていなかったらしい。このことも被害を拡大させた要因のひとつである。
事故直後には報道管制が敷かれたとの説もあるが事実ではない。事故翌日には福岡の地元紙『西日本新聞』の記者が列車で現地入りし、14日から少なくとも3日間にわたって記事や写真を掲載している。現在の感覚からすれば小さな扱いではあるが、当時の紙面が2ページしかないことを考慮すべきであろう。記事によれば事故の翌々日には占領軍司令部の中佐と福岡県知事の代理人がそれぞれ現地視察と負傷者の慰問を行っている。
しかし県外ではほとんど知られることがなく、実際に全国的に報道されたのは1963年10月発行の「サンデー毎日」でトップ記事として扱われたのが最初だと言われている。
被害者への被害救済について、占領軍からは補償が行われることはなく、当初は11月15日戦時災害保護法の適用を決めた福岡県から死者1人につき500円(現在の400万円相当)が支給されただけであった。