まず、「国家が外に対して独立している」ということが、「主権」の内容として語られることがある。国家は互いに平等であり、その上に存在する権威はないため、「最高独立性」といわれることもある。近代国家である以上、対外的に独立していなければならず、逆に、対外的に独立していない場合は、それは国家ではない(国際法上の国家の要件が欠缺している)ということになる。
次に、「国家が内に対して最高至上である」ということが、「主権」の内容として語られることがある。近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。この意味で、国家は対内的に至高の存在であり、これを「主権的」と表現するのである。この意味で用いる場合には、「主権」という語は、領土に対する統治権という意味とほぼ同じ意味内容を持つ。
第三に、「ある国家のうちで、実際に至高の存在は誰なのか? 即ち、実際に最終的に決定する力を持っているのは誰なのか?」というの問題も、「主権」の問題として語られることがある。この問題について、日本では、ドイツ流の議論とフランス流の議論の両方が混在している。
まず、ドイツ流の議論では、君主主権説と人民主権(Volkssouver?nit?t)説が対立し、その折衷説として国家主権説が唱えられることになる。この論争は、日本に輸入されて、いわゆる天皇機関説論争となった。天皇機関説は、国家主権説の系であり、天皇機関説論争は、要するところ、君主主権説と国家主権説の論争である。
次に、フランス流の議論では、フランス革命によって君主(ブルボン家のルイ16世 (フランス王))がギロチンで処刑されたために、君主主権説の前提が存在しなくなったので、ドイツ流の三者間の対立とは異なり、ナシオン主権(souverainet? nationale)論とプープル主権(souverainet? du peuple)論の二者の対立となる。強いて比較をするとすれば、さしずめプープル主権論が人民主権説に相似し、ナシオン主権論が国家主権説に相似するといえるだろう。しかし、こちらの議論で重要なのは、特に帰結である。ナシオン主権論は、抽象的なナシオン(nation)が主権者であり、ナシオンが授権した代表者はナシオン(の利益)を代表するのであるから(「純粋代表制(r?gime repr?sentatif pur)」という)、選挙民による命令委任(mandat imp?ratif)は否定すべきであると考えられることになる。これに対して、プープル主権においては、具体的なプープル(peuple、人民)こそが主権者であり、具体的な人民の具体的利益こそが政治に反映されるべきであり、命令委任は肯定すべきと考えられることになる。
ナシオン主権を体現したのがフランス1791年憲法であり、プープル主権を体現したのがフランス1793年憲法であるといわれる。フランス革命以前のアンシャン・レジームにおいては、三つの身分の利益を代表する身分制議会(これを「三部会」という)が存在していたが、そのような身分社会に対する第三身分の反感が、フランス1791年憲法において、唯一のナシオンを標榜するナシオン主権論に帰着したといえる。
その他:
フランスの憲法学者であるレオン・デュギは、法主権説を唱えた。
憲法制定権力(verfassunggebende Gewalt, pouvoir constituant)の話とからめて論じられることもある。
先に述べたように、近代国際法においては、国家間の「主権平等の原則」が認められており、国際連合もまた、この原則によって立つものとしている( ⇒国際連合憲章2条:「The Organization and its Members, in pursuit of the Purposes stated in Article 1, shall act in accordance with the following Principles. [/] 1. The Organization is based on the principle of the sovereign equality of all its Members.」)。この法的認識枠組によれば、カトリックローマ教皇庁もまた、バチカン市という領土を統治するひとつの「国家」(バチカン市国)であり、他の国家と平等の存在でしかないということになる。ここに中世の法秩序との大きな違いがある。いうまでもなく、この「主権」概念は、対外的な最高独立性という意味で用いられており、その ⇒コロラリー(帰結)として、一国一票(one state, one vote)の原則が導かれる。
日本においては、実定法上「主権」という概念が頻出し、しかも、それらが異なる意味で用いられているために、混乱の原因となっている。整理すれば、以下の通りとなる。
対外的な独立性という意味で用いられる場合
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(日本国憲法前文3項)
対内的な統治権という意味で用いられる場合
「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(ポツダム宣言8項)
国家における最高決定権力という意味で用いられる場合
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(日本国憲法前文1項)
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(日本国憲法第1条)
三つ目に掲げられた条文により、日本国憲法は国民主権原理を採用したと解されている。
近年において、リージョナリズムの発展と、国家単独では対応しきれない国際的諸問題(平和・開発・環境・人権など)を周辺国と共同で取り組むために、国家の主権を国際機関に移譲や共有を行うグローバル・ガバナンスが志向されている。なお、グローバル・ガバナンスは国家主権を放棄する思想ではないので注意されたい。日本において民主党は、憲法提言中間報告の中でこのグローバル・ガバナンスに基づいた国家主権の移譲や主権の共有を掲げている。しかし欧州連合 (EU) のような制度をそのまま取り入れるには、アジア諸国の歴史的諸問題が壁となってくるため様々な議論を呼んでいる。制度実現において先行しているEUは、国境管理や通貨統合などで、従来の「独立国家の主権」を絶対視する思考から脱却してきており、同時にそれに対する反発から国家主義的な反動も生み出している。