また、中華民国の政治において特筆すべきことは、中華民国政府が中華人民共和国の中国共産党政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であるとしている点である。これは、歴代の中華民国政府が、蒋介石率いる中国国民党が中国大陸を統治していた1947年に施行した『中華民国憲法』に基づいて政府を樹立していることに由来しており、1949年の毛沢東率いる中国共産党による、北京をその首都とする中華人民共和国設立は「反乱団体による非合法行為」としてきた。
このような中華民国政府の主張は、中華民国が連合国の主な一員として参戦した第二次世界大戦前から国際的に受け入れられており、その結果、第二次世界大戦の戦勝国としての立場は中華民国政府にあった。また、当然ながら1945年10月の国際連合設立時とそれ以降における「中国」の代表権も中華民国政府にあった。しかし、1949年の中華人民共和国の設立以降も、香港問題を抱え中華人民共和国に対して政治的配慮を必要としていたイギリスを除く殆どの西側諸国が中華民国政府を「『中国』の正統な政府」として認めていたものの、第二次世界大戦以降の冷戦下におけるアメリカとソビエト連邦を中心とした東西両陣営の政治的駆け引きの中、1971年に国際連合で中国共産党率いる中華人民共和国が承認され、中華民国政府が国際連合から脱退してからは、日本やアメリカをはじめとする西側諸国においても中華民国政府を「『中国』の正統な政府」として承認する政府が減少した。現在ではバチカンやパラグアイ、パプアニューギニアなど数十カ国のみが承認しているという状況であるが、日本やアメリカ、フランスなどを始めとする多くの国々とも「弁事処」と称される利益代表部を置く。
なお中華民国とバチカンの外交関係の歴史は古く、第二次世界大戦中の1942年に確立されている。この問題をめぐって、宗教活動に対して全面的な自由を与えている民主主義国家の中華民国と対立し、無宗教および宗教の存在の否定をその教条とする中国共産党政府の一党独裁国家である中華人民共和国は、表向きは中華民国と密接な関係を維持するバチカンに対して批判的な態度をとりながら、裏では世界各国に大きな影響力を持つバチカンとの外交関係の正式な確立を模索してきた。しかし、この様な状況は当分変化しないと考えられている。
李登輝総統(任期:1988年〜2000年)時代に入り、中華民国政府は中華人民共和国の存在を「反乱団体による非合法行為」と規定しなくなったが、今でも「『中国』の正統な政府」という主張は変えていない。その為、現在の中華民国国内では、「『中国』の正統な政府」であることを止め、現在の実効支配区域のみを統治する政府として国家を再編することで、中華民国の新たな国際社会復帰を模索する動きも活発化している。2005年8月1日には、陳水扁総統が「中華民国は台湾」と語っており、中華民国の国家としての定義は国内において二分している状況である。
さらには、近年では、中国大陸と台湾地域を統治する事を前提とした現在の中華民国の国家体制から脱却し、台湾地域のみの統治を前提とした国家を創出する台湾独立運動(台独運動、または台独)も活発化しており、そのことが問題をより複雑化している。もっとも、台湾地域においては、この問題に関する様々な意見が存在しているものの、少なくとも台湾地域の主権帰属が中華人民共和国に属するものではないという点では世論の大勢が一致している。そのため、中華民国の立法府たる立法院の議員は、主に「台湾の主権帰属は中華民国に属する」とする泛藍連盟派と、「台湾の主権帰属は中国の国家には属さない」とする泛緑連盟派(台独派)のいずれかに大別される。
ただし、世論調査では、早急な統一も台独も望んでおらず、実質的に共産主義政党の中国共産党による一党独裁国家であり、言論や思想、宗教選択の自由すら許されていない中華人民共和国と完全に分離して、議会制民主主義体制が堅持されている現在の状態を維持することを望む声が多い。そのため、中華民国の世論は基本的には現状での安定志向にあると言え、各党も世論を配慮しながら政治活動を行なっている。
また、日本やアメリカ、イギリスなどの中華人民共和国と国交を持つ旧西側諸国の政府も、正式には中華人民共和国の唱える「一つの中国」政策を支持しているものの、議会制民主主義体制を維持することを望む中華民国の国民の意向を尊重することと、中国共産党の一党独裁国家であり、言論の自由が極度に制限されている中華人民共和国によるアジアにおける軍事的覇権を牽制する意味からも、現在の状態の維持を事実上支持している。
経済台北市の台北国際金融センター(Taipei 101)高雄港台南サイエンスパーク
1912年の中華民国成立当初は経済状況は、清朝の対外賠償金を継承し、また鉄道や税関などの収入源を賠償金の担保として列強の支配下に置かれていたため危機的な状況にあった。
また建国当初の政争に加え、中国共産党との対立、更には日中戦争と国内での混乱が続いたことで更に経済状況が悪化し、物資が軍需用として優先使用され、その物資の輸送も限定された交通手段に頼っており国民経済は困窮を極めた。
日本の敗戦後は特に満州及び台湾地区では日本が残した資産を活用した工業化などによる経済建設を計画したが、まもなく開始された国共内戦により経済政策の実施は頓挫、また紙幣の乱発による急激なインフレなどで国民経済は崩壊の淵に立たされることとなた。
1949年に台湾に移った国民政府は「大陸反攻」を実現すべく国力の充実を図り、経済方面でも乱発した貨幣を整理し新台湾ドルを発行しインフレを抑制、傾斜生産方式を採用した工業化を図ると共に、冷戦下のアメリカからの経済援助を活用しての経済政策を実施、それまで農業と農業関連の加工業が主であった台湾地区の経済を軽工業、やがては重工業へと転換させることに成功し、現在ではアジア有数の先進工業国としての地位を確立、特に、マザーボードや液晶、レーザーモジュールやPCなどの高度な技術開発力を必要とするIT関連や、自動車や家電製品をはじめとする製造業、海運や航空業でその強みを発揮し、世界トップクラスの外貨準備高を擁する経済大国へと変貌している。
2000年代以降は中華人民共和国やインドなどの、低賃金の単純労働力を提供する発展途上国の台頭によって、高度な開発、生産力を必要としない製造業においては工場の海外進出に伴う産業の空洞化が進行したが、これに対し政府はITへの更なる投資と併せて、バイオ産業などより高い技術を有す産業に重点を置く政策に転換しつつある。