中華人民共和国の経済
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改革開放以前出典:世界銀行、中国のGDP。世界銀行の最新公式データによると、2005年のGDPは2兆2248億USドル。建国宣言を朗読する毛沢東

1949年国共内戦が終了し、中華人民共和国が建国されると、中国政府は重化学工業発展戦略を採用した。急速な産業化を最優先としている間、消費は減らされた。中国政府は経済の多くの部分を統制し、資源を建物や新しい工場の建設に振り分け、新しい産業が生み出された。より重要なことは経済成長を後押ししたことであった。予算とマネーサプライの厳しい制限により1950年末にはインフレが抑制された。 また、建国から間もない1950年6月30日、中華人民共和国土地改革法が公布された。政府からの指導と農民たちの地主に対する自主的な闘争も相俟って、「1952年春には土地改革は既に全国的に範囲にわたって基本的に完成した」と宣言された。自分で耕す田畑をもつことにより、農民の生産意欲は向上し、1952年の農産品の約半数の項目で1949年以前の最高を突破した[8]

こうして、日中戦争、国共内戦による経済のダメージから中国の経済は回復していった。

1952年の中国の工業生産高は当時の価格換算で349億元と推定されている[9]。それは当時の世界のGDPの約3%を占め、日本やインドのGDPの1.5倍であった(しかし、一人当たりGDPではない)。一人当たりGDPも1960年代はわずか17%しか成長しなかった [10]

その後、第1次五カ年計画(1953 - 1957年)でソビエト連邦型の計画経済を模倣し、重化学工業への投資を行い、経済成長を達成した[要出典]。

毛沢東は1958年に当時世界2位の経済大国であるイギリスを追い抜くために野心的な計画の遂行を指示した。農業の集団化(人民公社)を行い、農民を大量に動員して鉄鋼の増産が行われたが、鉄鋼生産に伴う環境破壊は農業生産量の減少を引き起こし、最終的には数千万人の餓死者を生み出し失敗に終わった(大躍進政策)。

大躍進政策の失敗により、毛沢東は一旦、権力者の地位を降り、劉少奇?小平らが、経済調整を行った。農村の集団化の見直しを図り、農家にわずかではあるが自由に耕作できる農地を与え、農業生産のインセンティブを付与した。

しかし、毛沢東が文化大革命を発動、復権すると、劉少奇・?小平らは失脚した。この間、知識青年が都市から農村に学習の為に下放されたり、毛沢東謁見の為に紅衛兵を輸送したりしたことにより経済活動は停滞した。


改革開放以降


第11期三中全会から1980年代?小平

1976年毛沢東が病没し、四人組が逮捕されると?小平は権力を奪取した。そして、1978年の第11期三中全会で、改革開放路線が採用され、従来のソビエト連邦型の計画経済は否定され、市場指向型の経済に大きく舵を切った。

1980年代になると、中国政府は中央集権の計画経済とインフレ失業・財政赤字無しに生産性、生活水準、技術水準を増大させる為の市場指向型の経済を組み合わせようとした。中国政府は人民公社を解体し、農民に、農作の決定権を与えるという生産責任制を採用する農業改革を実行した。また、農村にある郷鎮企業といった非農業活動を勧め、より自発的な国有企業の経営を推奨し(従来は中央の管理下にあった)、市場競争を強め、中国大陸と外国企業との直接の接触を促進した。その上、中国政府は改革開放以前の時よりも、外資や輸入に依存した。

中国の最高指導者である?小平は1984年6月30日、次のことを言った。「社会主義とは何か? そしてマルクス主義とは何か? 我々は過去、このことについてあまりはっきりとさせてこなかった。マルクス主義は生産力を増加させることをことさら強調した。我々が言ってきたことは社会主義は共産主義の第一段階であること、そして、発展段階では能力によることから必要性によることにいたるまでの原則があてまはるということである。その原則は高度に発達した生産力と物質的豊かさを要求しいる。それゆえ社会主義の段階への基本的な課題は生産力を増加させることである。資本主義体制下での生産力よりも早く、大きく社会主義体制下での生産力が増加することによって、社会主義体制における優越性が示される。生産力が増加するにつれ、人民の物質的・文化的生活は絶えず発展する。中華人民共和国建国後の我々の欠点は生産力を増加させることに気づかなかったのである。社会主義は貧困を根絶することを意味する。平等主義は社会主義でなく、いわんや共産主義でもない[11]。」中華人民共和国の経済特区

そして、1984年、4つの経済特区(北から厦門汕頭深?珠海)と14の対外開放都市(大連秦皇島天津煙台青島連雲港南通上海寧波温州福州広州湛江北海)を設置し、外資を呼び込んだ(その後、海南省が経済特区に指定された)。

1980年代の間、経済改革により農業及び工業生産高が毎年約10%で成長した。農村の実質所得は2倍になった。とりわけ香港周辺の沿岸部である広東省や台湾の対岸にある福建省では、外国資本が国内向け及び輸出向けの製品の生産増加に拍車がかかり、工業生産高が飛躍的に伸びた[要出典]。中国は穀物を自給できるようになった。農村工業は農業の生産高の23%を占め[要出典]、農村における過剰労働力の吸収に役立った。様々な軽工業の品々や消費財が増加した。経済改革は、財政面、金融面、物価の安定、労働市場の面で始まった。

経済成長の暗黒面として、中国は社会主義の最悪の結果(官僚主義汚職財産権の侵害)と資本主義の最悪の結果(貧富の格差、急激なインフレ)に直面することになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki