中曽根康弘
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ウィリアムズバーグ・サミット1983年、アメリカバージニア州ウィリアムズバーグでの先進国首脳会議にて(右から3人目)

中曾根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配備すべきか否か、であった。

だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスミッテラン大統領、西ドイツコール首相、カナダトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。

そうした状況の中、中曾根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。

そして、政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、また、そのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長の為の十項目からなる共同指針が示されたのだった。これにより、ウィリアムズバーグ・サミットは、歴史的な成功を収めたのである。

このウィリアムズバーグでの西側陣営の乱れなき結束と対決の意思が、その後の東欧衛星国の完全独立への行動に励ましを与え、ひいてはソ連の崩壊へのスタートになったことは歴史が証明している。


クレムリンの機密文書

ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。

このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曾根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。


日中関係

以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったのだが、中曾根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化につとめたので反中派であったかのような印象もある。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曾根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曾根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曾根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としており、このことからも在任当時反中派であったとは言い難い。

また中曾根内閣当時、中華人民共和国ケ小平は、主敵はソビエト連邦であるとし、日米同盟や日本の防衛力整備を歓迎するコメントすら出してもいた。

角福対立時代には一貫して日中国交回復を支持する立場をとっていることから、中曾根の姿勢は反中的なものではなく、一方的な対中追従でもなく、中華人民共和国を親日化することが目的であったと言える。中華人民共和国からの留学生の多数受け入れもその一環である。


民営化推進

中曾根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社日本国有鉄道および日本電信電話公社三公社民営化させる他、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。

次第に国民からの支持も安定し、1986年(昭和61年)の衆参同日選挙(死んだふり解散)では300議席をこえる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。また、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともありこれについては批判の声も少なくない。


退任竹下登

この年の前半は中曽根にとって最悪の状態となった。選挙中に「導入しない」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及されて支持率が一時的に急落。1987年(昭和62年)4月の統一地方選を敗北し翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決し内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要、NBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki