中日ドラゴンズ
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チーム成績・記録1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す

リーグ優勝(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年)・7回

日本一(1954年、2007年)・2回

アジアチャンピオン(2007年)・1回

Aクラス(1938年秋、1943年、1947年、1950年?1959年、1961年?1963年、1965年?1967年、1971年?1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年?1989年、1991年、1993年?1994年、1996年、1998年?2000年、2002年?2007年)

Bクラス(1937年春?1938年春、1939年?1942年、1944年、1946年、1948年?1949年、1960年、1964年、1968年?1970年、1976年、1978年、1980年?1981年、1983年、1985年?1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年)

最多勝 89勝(1950年)

最多敗 83敗(1948年、1964年)

最多引分 19分(1982年)

最高勝率 .683(1954年)

最低勝率 .283(1937年秋)

最小ゲーム差 1.0ゲーム(1961年、1994年)

最大ゲーム差 34.5ゲーム(1948年)

最多本塁打 191本(1984年)

最少本塁打 1本(1937年春)

最高打率 .282(1984年)

最低打率 .182(1941年)

最高防御率 1.41(1943年)

最低防御率 4.75(1995年)


歴代本拠地
1軍本拠地


1948年 後楽園球場?

1949年?1975年 中日球場(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、正式に愛知県が本拠地となる)

1976年?1996年 ナゴヤ球場(中日球場を改称)

1997年? ナゴヤドーム

2軍本拠地


1987年ごろ?1999年ごろ 名鉄阿久比グラウンド阿久比町

1999年? ナゴヤ球場


チーム特徴

杉下茂、星野仙一、川上憲伸らをはじめ、明治大学出身者が多い。

打線の愛称は「恐竜打線」「強竜打線」など。かつてナゴヤ球場(改修前)を1軍ホームグラウンドにしていた時期は、狭い球場を生かした打力が売り物のチームだった。しかしナゴヤドームへと移転してからはチームが不振に陥り一転、投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、2004年以降は奮起も目立ち再度の定着を果たした。

東海地方唯一の球団ということもあり、地元には熱心なドラゴンズファンが多い。また、近隣の岐阜、豊橋、浜松などでは毎年地方試合が開催されている。

ニックネームの「ドラゴンズ」は親会社・中部日本新聞社(社名は当時)の杉山虎之助社長の干支「辰」にちなむ。現在の球団名「中日ドラゴンズ」の初出は1948年のことで、親会社よりも先に「中日」と名乗ったことになる。

2位になることが非常に多く、1950年に2リーグ制になってから2007年までの58シーズンで2位に22回なっている。この回数は、2リーグ制移行後の両リーグトップである(1990年代以降だけでも1991年、1993年、1994年、1996年、1998年、2000年、2003年、2005年、2007年の9回)。そのため、ファンの間では2位が中日の「定位置」と呼ばれることもある(「万年2位」、「優勝と縁遠い」というニュアンスも含むので、あまりいい称号ではない。その証拠に『サンデードラゴンズ』で「もう2位はいらない」というナレーションが入ったこともある)。21回の2位の内、最多優勝は巨人の13回。特に1963年、1994年、1996年、2000年は、直接対決で巨人に敗れて優勝を決められた。

2位が非常に多いのは、巨人が2リーグ制移行後に31回も優勝していることもあるが、ここ一番で勝ち切れない体質も指摘されている。1990年代以降を見ても、1991年の広島、1993年のヤクルト、1994、1996、2007年の巨人、1998年の横浜、2005年の阪神との優勝争いが挙げられる。いずれも一時期は絶望的な状況に追い込まれたにもかかわらずそこから相手を猛追して、あと一歩というところまで相手に迫りながらも優勝を逃した。

かつては数年周期で大きな低迷の年が来て、その翌年にはたいていの場合優勝争いに絡むという特徴があったが、近年のセ・リーグの中では強豪チームとなっており、2004年以降は毎年優勝争いに絡んでいる。

日本シリーズには8回出場しているが、1954年に最初の日本一になってからその後は6連続で敗退してパ・リーグとの相性は悪く、日本一経験のないまま消滅した近鉄・松竹を除く11球団の中でもっとも長い間日本一から遠ざかっていた。2010年までに日本一にならないと、近鉄が持っている55年間(1950年?2004年)連続日本一なしの記録を抜く可能性もあった。また、日本シリーズ6連続敗退は日本プロ野球の単独ワースト記録でもあった。しかし2007年に日本シリーズ制覇を達成して終止符を打つことになった。

その他、2005年には交流戦で15勝21敗と負け越している。この年、中日と阪神の対セ・リーグ成績はほぼ同じであったため、これが優勝争いに響く形となった。2006年は20勝15敗1分と勝ち越し優勝したものの、日本シリーズは1勝4敗で敗れた。


応援スタイル

鳴り物応援および チャンステーマも参照

選手別のヒッティングマーチを歌いながら、メガホンなどを叩くスタイルである。1980年代?1990年代初頭までの選手別応援歌は他の楽曲から流用したものが多く見られる(例:立浪和義ガラスの十代落合博満マグマ大使など)。1997年のナゴヤドーム移転後からは全国中日ドラゴンズ私設応援団連合が2つのチャンステーマと現監督落合博満の応援歌(上述したマグマ大使)以外は全ての選手応援歌を作曲・作詞して演奏している。1回の攻撃開始、7回の攻撃前、9回以降の攻撃前、得点時に「燃えよドラゴンズ!」を演奏する。他球団では得点時やラッキーセブンで曲が使い分けられたりするが、中日は得点時・勝利時等で全て燃えよドラゴンズを演奏するので、試合中に演奏される機会が非常に多い。応援歌が無い選手には「ガッツだドラゴンズ」(新人王資格あり)、「ドラゴンズマーチ」(新人王資格なし)が演奏される。過去は5年目までが「ガッツだドラゴンズ」、それ以降が「ドラゴンズマーチ」だったが、2004年?2005年オフシーズンに中堅所のベテランから5、6年目の選手を大量に解雇・放出したこと、大学生・社会人ドラフトの分離によって高年齢ながら入団後まもない選手が増えることが予想されることにより基準が3年目までに変更された。2007年シーズンは「ドラゴンズマーチ」に一本化していたが、2008年シーズンは基準を新人王資格の有無に改め、「ガッツだドラゴンズ」の演奏が復活した。

チャンステーマは3つある。

元中日ゲーリー・レーシッチらに使われた山本リンダの「狙い撃ち」(2002年後半から)。

通称「狙い撃ち」。2003年から青とピンクの手袋をはめて応援するスタイルを始めたが、あまり広まっていない。


元中日アロンゾ・パウエルの応援歌(2004年から)。

通称「パウエル」、又は「Get Victory」。下記の「川又」は歌詞つきであるが、「パウエル」は歌詞中に選手名を含むため、チャンステーマとしては歌詞なしである。


元中日川又米利に使用されていたささきいさおの「ぶっちぎりの青春」(2005年から。


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担当:Mamenoki