中国は「国の中心」、または中華思想に基づき「世界の中心」を意味し、少なくとも『史記』や『文選』などには、「中原(ちゅうげん)」の意味に使用されていた。このように本来は特定の民族、国家を指す語ではないが、中心地域に中原漢民族が居住していたことからこの名称が用いられてきた。辛亥革命以前は「国家」という概念が無く、『「天下」あって「国家」無し』という状態だったため王朝の名前が使われたようであるが、辛亥革命後に近代的な国民国家形成を目指し1912年に中華民国が成立してから後は、中華人民共和国・中華民国のそれぞれの国号の略称にもなった。
本来「華」は「夷」「戎」「蛮」「狄」「倭」などの周辺民族に対して、優れた文化を持った者を意味し、黄河の流域に都市国家を築いて漢民族を形成していった人々によって自称として用いられた。ここから、「中心の国に住む優れた文化」という意味の「中華」や、その持ち主という意味の「華人」という呼称が生まれ、中華人民共和国・中華民国の国号や「華僑」「中華思想」という言葉はこれに由来している。
古代ギリシアでは中国の商人はセール(σηρ)(複数形:セーレス(σηρεσ))と呼ばれた[1]。 しかし、やがて後述する「チーナ」に由来する「スィーン」が伝わるとその系統の呼称に取って代わられた。
漢字圏以外からは、古くは秦に由来すると考えられるチーナ、シーナという呼称が一般的に用いられ、古代インドではチーナスタンとも呼んだ。これが仏典において漢訳され、「支那」「震旦」などの漢字をあてられる。この系統の呼称はインドを通じて中東に伝わってアラビア語などの中東の言語ではスィーン (S?n) となり、ヨーロッパではギリシャ語・ラテン語ではシナエ (Sinae) に変化する。また、更に後にはインドの言葉から直接ヨーロッパの言葉に取り入れられ、China(英語)、Chine(フランス語)などの呼称に変化した。
日本でも「秦」に由来して、江戸時代初期より支那の呼称も使用されていた。詳細は、支那#言葉の由来と歴史を参照。
最初の統一王朝ながら短命に終わった秦王朝に代わって400年間に渡って中国を支配した漢王朝(前漢と後漢)の時代に、漢民族を中心とする中国の版図は定着していった。そのため、「漢民族」や「漢字」のような言葉に漢の字が使われている。
7世紀末から8世紀初頭の突厥(第二突厥帝国)の人々が残した古テュルク文字の碑文において中国の人々を指して使われている呼称に「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγa?)」があり、北中国に北魏を建てた鮮卑の拓跋部、拓跋氏に由来すると考えられている(白鳥庫吉やポール・ペリオらの説。桑原隲蔵は唐家子に由来するとの説、つまり唐由来説を唱えた)。
タブガチュの系統の呼称は、1069年のクタドグ・ビリク ( ⇒en:Kutadgu Bilig) におけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後も中央アジアで広く使われた。1220年-1224年に西方を旅した丘長春(長春真人)は「桃花石」と記録している。11世紀-12世紀のカラハン朝においては数人の可汗がTabghach (Tavghach) という名である ( ⇒en:Qarakhanid dynasty) 。しかしモンゴル帝国の時代前後に後述するキタイに取って代わられた。
なお古テュルク文字碑文以前、東ローマ帝国の歴史家テオフィラクトス・シモカッタ ( ⇒en:Theophylact Simocatta) の7世紀前半に書かれたとみられる突厥による柔然滅亡(552年)関連の記事にタウガス (Taugas) との記載があり、これも同系統の呼称と思われる。記事が書かれた時期は隋末-唐初期と思われ、柔然の滅亡は西魏から北周、東魏から北斉への禅譲と同時期となる。
江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。古語で外国を意味する「から」の音を唐の漢字にあてる例も多い。中国を「唐土(もろこし)」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人(からびと、とうじん)」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語(からことば)」と呼ばれた。
11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ(契丹)人の遼王朝から中央アジア方面ではキタイ、カタイという呼称が生まれた。ペルシア語やテュルク語を通じて中国の文物の名前を知ったと見られるマルコ・ポーロは、北中国のことをキタイという名で記録した。ロシアでは現在も中国のことをКитай (Kitay) と呼んでいる。
西ヨーロッパにはCathayとして伝わり、キャセイパシフィック航空の社名などに使われているが、Chinaに比べるとあまり広汎に用いられる呼称ではない。
中国の歴史を参照
中国の歴代王朝は自らが人類の唯一の国家でありそれ以外は国の辺境に過ぎないという態度を取ってきた。故に中華王朝には(対等な国が存在しないのだから)対等な関係の外交というものは存在せず、全て朝貢という形を取っていた。