対日戦争を第二次国共合作によって乗り切り、第二次世界大戦終結後の1947年9月に「人民解放軍総反抗宣言」を発表し初めて人民解放軍の名称を使用。国共内戦により中国国民党勢力を大陸から台湾へ駆逐する。これらの戦いで功績のあった軍の長老が長く君臨し、今の政治人脈に引き継ぐ事となる。
1937年-1945年 日中戦争。
1946年 国共内戦が始まる。
1949年 蒋介石が南京を脱出し中華民国国軍(現在の台湾軍)とともに台北へ。 国共内戦の終結。
1950年10月 朝鮮戦争に参戦。1953年まで (中国人民志願軍も参照)
1950年 チベット侵攻
1954年-1955年 第一次台湾海峡危機
1958年 第二次台湾海峡危機 (金門砲戦)
1959年9月から1962年11月まで 中印国境紛争 (中ソ対立も参照)
1969年-1978年 中ソ国境紛争
1974年 南ベトナムと西沙海戦( ⇒w:Battle of Paracel)
1979年 中越戦争
1986年-1988年 ベトナムと国境紛争、南沙海戦( ⇒w:Spratly Island Skirmish (1988))
1989年 六四天安門事件
1995年-1996年 第三次台湾海峡危機 ( ⇒w:Third Taiwan Strait Crisis) (台湾有事も参照)
国共合作から国共内戦時の構成
第1野戦軍(司令員/政治委員・彭徳懐)
第2野戦軍(司令員・劉伯承、政治委員・?小平)
第3野戦軍(司令員/政治委員・陳毅)
第4野戦軍(司令員・林彪、政治委員・羅栄桓)
華北軍区(司令員・聶栄臻)
元老には十大元帥と呼ばれる軍閥代表者が居る。彭徳懐・劉伯承・陳毅・林彪・羅栄桓・聶栄臻・賀竜・朱徳・徐向前・葉剣英がそのメンバーであり、老総(ラオゾン)とも呼ばれる。
各軍管区へは、軍閥の影響力を削ぐ為に各野戦軍より選出した部隊で混成される。主力に位置される部隊は、権力闘争に勝ち残った第3野戦軍系部隊があげられる。
中国共産党中央軍事委員会の下に総参謀部、総政治部、総後勤部、総装備部の四総部があり、その下に海軍、空軍、第二砲兵(戦略ミサイル部隊)および七大軍区が置かれている。 また国防科学技術工業委員会、軍事科学院、国防大学なども軍区級組織である。国務院の国防部は外国との軍事交流などを担当しているだけで、人民解放軍に対する指揮権を持っていない。国務院の管轄下にない解放軍はあくまで党の軍隊であり、国家の軍隊ではないとする。党と軍の関係については、憲法で中央軍事委員会の指導下にあると規定されているが党主席とは記載されていない。そのため、毛沢東など歴代の最高指導者は軍事委員会主席を兼任している。
人民解放軍が国家の軍でなく党の軍であるという立場をとるのはマルクス・レーニン主義の理論によって国家の軍隊が国家による人民を抑圧・搾取する手段であり、侵略・植民地支配の手段であると規定されるからであり、最大の暴力装置である軍隊を国家を指導する立場である党が管理するのは当然であると考えられたからである。建前上、人民解放軍は人民の軍隊であり革命を遂行・防衛するための軍隊であるとされている。しかし、マルクス・レーニン主義の本家であるソビエト連邦でもこのような理論は現実的でないとして第二次世界大戦後の1946年に赤軍を国家の軍隊であるソビエト連邦軍に改組している。
第二次天安門事件が発生した時に、人民解放軍が、民主化勢力(民主化運動に理解を示していた一部の政府中枢を含む)と共産党保守派のどちらかに付くかを、全世界が注視したが、中央軍事委員会主席の命令について民主化勢力の弾圧を行った。人民解放を冠した軍隊が人民を弾圧した光景は第一次天安門事件の時に四人組からの命令を最後まで無視した姿とは余りにも対照的であったが(四人組は最終的には民兵を動員した)、人民解放軍の行動は中央軍事委員会主席の一言に左右されている事を知らしめた。この弾圧によって、国際社会の人民解放軍を見る目がいっそう厳しくなり、中国人の中にも「人民を抑圧している軍隊」という印象を持ち、人民解放軍に失望した人がいた。しかし、その後の1998年の災害派遣での活躍等により、イメージの改善は見られている。
災害派遣の映像
詳細は中国共産党中央軍事委員会を参照
中華人民共和国中央軍事委員会も参照
主席:胡錦涛(国家主席、党総書記)
副主席:
郭伯雄(1942.07-、上将、党中央政治局委員)
徐才厚(1943.06-、上将、党中央政治局委員)
委員:
梁光烈(1940.12-、上将、前軍総参謀長)