中華民国は成立したものの、清朝を打倒した時点で革命に参加した勢力どうしで利害をめぐって対立するようになり、政局は混乱した。各地の軍閥も民国政府の税金を横領したり勝手に新税を導入して独自の財源を持つようになり、自立化した。
臨時大総統であった袁世凱は大総統の権力強化を図って議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。国民党の急進派はこれに反発、第二革命を起こしたが鎮圧された。1913年10月袁は正式な大総統となり、さらに11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。
袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。しかしこのような外国依存の財政は、のちに列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。また日本が中国での権益拡大に積極的に動いた。
1915年5月9日に、袁が大隈重信内閣の21ヶ条要求を受けたことは大きな外交的失敗と見られ、同日は国恥記念日とされ袁の外交姿勢は激しく非難された。袁は独裁を強化することでこの危機を乗り越えようとし、立憲君主制的な皇帝制度へ移行し、自身が皇帝となることを望んだ。日本も立憲君主制には当初賛成していたようだが、中国国内で帝制反対運動が激化すると反対に転じ外交圧力をかけた。1916年袁は失意のうちに没した。
袁の死後、北京政府の実権を掌握したのは国務総理となった段祺瑞であった。段は当初国会[6]の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとしたため徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日第一次世界大戦に対独参戦。軍備を拡張して国内の統一を進めた。また鉄道や通信などの業界を背景とする利権集団が段を支えた。1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。5月には日本と日中軍事協定[7]を結んだ。寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると、段は急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派の馮国璋は徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。親日的な安徽派は徐々に影響力を失っていった。1919年5月4日、山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動という。なお山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚した。
袁世凱により国民党が非合法化されたのち、孫文は1914年7月に中国革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。1921年には上海で中国共産党が成立した。これらの政党は1918年のロシア革命の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。1924年国民党は第一回全国大会をおこない、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次国共合作)を打ち出した。孫文はこのころ全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。1925年には国民会議促成会が開かれたが、この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国国民政府の成立が宣言された。一方で1924年6月には蒋介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。1925年4月に国民革命軍が正式に発足され、国民党は蒋介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。1926年に広州から北伐を開始した。1927年1月には武漢に政府を移し、武漢国民政府と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、蒋介石は同年4月12日上海クーデターを起こしてこれらを弾圧し、4月18日には反共を前面に打ち出した南京国民政府を成立させた。南京国民政府は主に上海系の資本家に支えられ、北京・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。1928年6月南京政府の国民革命軍は北京の中華民国政府を打倒し、12月に張学良もこれを承認したことから、国民政府によって中国は再び統一された。
国民政府においては基本的に国民党の一党独裁の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、4億をこえると考えられた中国国民のなかではかなり少数であった(国民の多くが「国民」として登録されておらず、しかも文盲のものも多かった)。そのため支配基盤は完全とは言えず、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策がおこなって、割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮したりした。1930年代前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。1930年に閻錫山と汪兆銘が中心となった北平政府や1931年に孫科らがたてた広州政府などである。
しかしこのような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蒋介石の立場を強めることにもなった。蒋介石は経済政策[8]でも手腕を発揮し影響力を増した。
抗日戦争(1931年?1937年)満州国皇帝愛新覚羅溥儀
張作霖が関東軍に爆殺されたあとをついだ張学良は国民革命を支持しており、自身の支配していた中国東北地方を国民政府へ合流させた。このために反日運動が中国東北地方にも広がったが、日本は中国東北地方の権益を確保しようとしていたためにこれに大きく反発した。