中国の歴史
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袁世凱死後の政局(1916年〜1920年)

袁の死後、北京政府の実権を掌握したのは国務総理となった段祺瑞であった。段は当初国会[6]の国民党議員などと提携し、調整的な政策をとっていた。しかし、第一次世界戦に対独参戦しようとしたため徐々に国会と対立した。段は日本の援助の下に強硬な政策を断行した。1917年8月14日第一次世界大戦に対独参戦。軍備を拡張して国内の統一を進めた。また鉄道や通信などの業界を背景とする利権集団が段を支えた。1918年には国会議員改定選挙を強行した。国民党はこれに激しく対立し、南方の地方軍とともに孫文を首班とする広東軍政府をつくった。5月には日本と日中軍事協定[7]を結んだ。寺内正毅内閣失脚後に日本の外交方針が転回すると、段は急速に没落した。段の安徽派と対立関係にあった直隷派馮国璋徐世昌を大総統に推薦し、段もこれを受け入れた。親日的な安徽派は徐々に影響力を失っていった。1919年5月4日、山東半島での主権回復と反日を訴えるデモ行進が始まった。これを五・四運動という。なお山東半島は1922年に返還された。1920年7月の安直戦争で直隷派に敗れたことで段は失脚した。


国民革命(1920年〜1928年)革命家・孫文

袁世凱により国民党が非合法化されたのち、孫文は1914年7月に中国革命党を東京で結成した。1919年には拠点を上海に移し、中国国民党と改称した。1921年には上海で中国共産党が成立した。これらの政党は1918年のロシア革命の影響を受けており、議会政党というよりも明確な計画性と組織性を備えた革命政党を目指した。1924年国民党は第一回全国大会をおこない、党の組織を改編するとともに共産党との合同(第一次国共合作)を打ち出した。孫文はこのころ全く機能していなかった国会に代わって国内の団体代表による国民会議を提唱し、これに呼応した馮国璋により北京に迎えられた。1925年には国民会議促成会が開かれたが、この会期中に孫文は没した。7月には広東軍政府で機構再編が進み、中華民国国民政府の成立が宣言された。一方で1924年6月には蒋介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。1925年4月に国民革命軍が正式に発足され、国民党は蒋介石を指導者として軍事的な革命路線を推し進めることとなった。1926年広州から北伐を開始した。1927年1月には武漢に政府を移し、武漢国民政府と呼ばれるようになった。この武漢国民政府では当初国民党左派と共産党が優位にあったが、蒋介石は同年4月12日上海クーデターを起こしてこれらを弾圧し、4月18日には反共を前面に打ち出した南京国民政府を成立させた。南京国民政府は主に上海系の資本家に支えられ、北京・武漢・南京に3つの政権が鼎立することになったが、9月ごろから武漢政府も反共に転じ、南京政府に吸収された。1928年6月南京政府の国民革命軍は北京の中華民国政府を打倒し、12月に張学良もこれを承認したことから、国民政府によって中国は再び統一された。


国民政府(1928年〜1931年)蒋介石

国民政府においては基本的に国民党の一党独裁の立場が貫かれた。しかし一般党員の数は50万人以下であったとされており、4億をこえると考えられた中国国民のなかではかなり少数であった(国民の多くが「国民」として登録されておらず、しかも文盲のものも多かった)。そのため支配基盤は完全とは言えず、土地税を中心として地方政権の財源を確保する国地画分政策がおこなって、割拠的傾向がいまだに強い地方勢力に配慮したりした。1930年代前半には国民政府に叛旗を翻す形で地方政権が樹立される例が多くなり、軍事衝突なども起きた。1930年に閻錫山汪兆銘が中心となった北平政府や1931年に孫科らがたてた広州政府などである。

しかしこのような軍事的緊張は国民政府の中央軍を掌握していた蒋介石の立場を強めることにもなった。蒋介石は経済政策[8]でも手腕を発揮し影響力を増した。


抗日戦争(1931年〜1937年)満州国皇帝愛新覚羅溥儀

張作霖関東軍に爆殺されたあとをついだ張学良は国民革命を支持しており、自身の支配していた中国東北地方を国民政府へ合流させた。このために反日運動が中国東北地方にも広がったが、日本は中国東北地方の権益を確保しようとしていたためにこれに大きく反発した。1931年9月、満州事変がおこり、関東軍によって日本政府の意向を無視して大規模な武力行動がおこなわれた。しかし列強はこれを傍観する姿勢をとったので、日本政府はこの行動を追認した。

東北地方をほぼ制圧した日本軍は、1932年上海事変を起こし、列強がそれに注目している間に傀儡政権として満州国を東北地方に樹立した。同年10月、リットン調査団国際連盟によって派遣され、満州国を中国の主権の下に列強の共同管理による自治政府とするべきという妥協案を示したが、日本は採択に反対した。1933年5月日中間で停戦協定(塘沽協定)が結ばれた。1934年には満州国は帝制に移行し、満州帝国となった。

1931年に瑞金に政権を樹立していた中国共産党は満州国建国時に日本に宣戦布告していたが、国民党との抗争に忙しく、中国国民で一致して日本の侵略に立ち向かうことはできなかった。1934年には瑞金は国民党により陥落し、打撃を受けた中国共産党は長征と称して西部に移動し、組織の再編をはかった。長征の結果中国共産党は延安に拠点を移した。


日中戦争(1937年〜1945年)

1937年には、盧溝橋事件通州事件第二次上海事変などをきっかけとして、日本軍が中国本土に進出し、中華民国と全面戦争に入った(日中戦争)。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、西安事件により、二つの党が協力して日本と戦うことになった(第二次国共合作)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki