中国の歴史
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秦漢帝国

現在の陝西省あたりにあったは、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。

始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は紀元前206年に滅びた。漢の偉大な発明、紙

秦が滅びたあと、劉邦項羽が覇権をめぐって争った(楚漢戦争)が、紀元前202年には、劉邦が項羽を破り、の皇帝となった。劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。

8年には、王莽が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った。結局、漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を後漢という。王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ安定した政治が行われた。しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。


魏晋南北朝時代三国決戦の地、赤壁

後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。これ以降、589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。

さて、黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕後漢皇帝から皇帝の位を譲られ、を建国した。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、を建国した。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。

三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。魏では官吏登用法として、九品官人法[5]がおこなわれた。

三国は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず263年に魏に滅ぼされ、その魏も有力な臣下であった司馬炎265年に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。司馬炎は皇帝となって国号をと命名し、さらに280年に呉を滅ぼし、中国を統一した。しかし、300年から帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした(八王の乱)。このとき、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの五胡が非常に強い力を持つようになった。316年には、五胡の1つである匈奴が晋をいったん滅ぼした。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が仏教道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。

さて、江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki